〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

明治時代(前半)

(はいぶつきしゃく)
廃仏毀釈ってなんのこと?

(画像出典:https://www.ac-illust.com/)

廃仏毀釈とは、明治維新のときに起きた「仏教を排斥する運動や風潮」のこと。寺院や仏像など仏教関連の文物を壊し(廃仏)、釈迦の教えを捨てる(毀釈)ことを意味する語。

仏教なんていらない!運動

廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)とは、明治時代の初めころに起きた社会現象で、おもに仏教に反感を持っていた神道家や神職の人々が中心となって(また一般の人々も加担して)、仏教を排斥したり攻撃したりした運動のことです。

たとえば、寺院の建物や仏像が破壊されたり経文が焼かれたりしました。こうしたことが日本各地で行われ、仏教は大きな打撃を受けました。
なぜこんなことが起きたのでしょうか。

もともとは神も仏も同じ?

もともと日本では、「神仏習合(しんぶつしゅうごう)といって、神道と仏教とが融合し「神も仏も本来ひとつのもの」という考えが受け入れられてきました。両者をひとくくりにした「神仏」という言葉は今でもふつうに使われますし、「神様仏様〜」と呼びかけたり祈ったりするフレーズもよく耳にしますね。

本来なら、神道が日本古来の宗教(習俗)なのに対して仏教は外来の宗教であり、その内実はまったく異質なものですから、この両者が融合するというのも不思議な話です。こんなことを自然にやってのける日本人は、古くから「和の心、和の精神」などと表現されるように、異質なものをうまく取り込んで共存させるという能力にたけた民族ということができそうです。
長い間に神仏習合の考え方が行き渡り、神社に仏像があったり寺の境内に鳥居があったりするのもごく自然な風景でした。

神仏を分離せよという命令が出る!

ところが、明治新政府は明治元年に「神仏判然令 (しんぶつはんぜんれい) (神仏分離令)」というものを出して、神道と仏教とを明確に分ける方針を打ち出しました。どうしてそんなことをしたかといえば、明治政府は権威の象徴として天皇を国の中心にいただき、さらに宗教的なバックグラウンド、言いかえれば国民の精神のよりどころとして日本古来の神道を採用しようとしていたからです。

これは西洋諸国によるキリスト教の勢力拡大を防ぐためという理由もありましたし、また強力な中央集権国家をつくるためには、国民の心がひとつになれるような宗教を確立する必要があると考えられたこともあります。つまり西洋におけるキリスト教の力というものを逆に見習ったとも言えます。

政府は、日本の中心に据えるのにふさわしい宗教は、天皇家の源流ともされている日本古来の神道であるとし、神道の国教化を進めていこうとしたのです。
そうなると、神道と仏教とがごちゃまぜになっているという当時の状況は都合が悪いことだったのです。そこで「神仏判然令(神仏分離令)」が出されたというわけですね。

長年の不満が爆発して廃仏毀釈!

この神仏判然令というのは、「神と仏をちゃんと分けなさい」という意味の命令だったのですが、長年仏教に反感をいだいていた一部の神官たちはこれを拡大解釈し、「神道を国家の中心に据えるんだから仏教なんて邪魔者だ。このさいぶっつぶしてやろう!」と息巻いて、仏教を激しく排撃する行動に出ました。これが数年間続いた「廃仏毀釈の嵐」になったというわけです。

こうした神官・神道家の仏教に対する反感というのは、江戸時代の「寺請制度(てらうけせいど)に始まっています。寺請制度とは、お寺が「この人はうちの寺の檀家(だんか)ですよ」ということを証明する制度です(この証明書を寺請証文といいます)。人々はこの制度によって、誰もがどこかの寺の檀家(だんか)になることを義務づけられました(所属する寺のことを菩提寺(ぼだいじ)といいます)。

幕府はキリスト教などの『危険な宗教』を抑えるためにこんな政策をとったのですが、これによってお寺は幕府の民衆統治の一端をになうようになりました。人々はお寺に束縛されるようになったのです。そして菩提寺の宗旨にしたがって仏事を行ったりお布施を求められたりして生活上の支配関係ができていきます。

神官もこうしたお寺の支配下にあって長いあいだ不満を募らせていましたから、明治政府によって神道中心の政策が進められると、その不満を爆発させるように、(同様にお寺に反感を持っていた一般の民衆も巻き込んで)廃仏毀釈の運動を広げていったのでした。

【参考文献】

・笠原一男著『日本史研究』山川出版社、1997年