〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(さいごうたかもり)
西郷隆盛ってどんな人?

西郷隆盛:1827年(文政10年12月7日)〜1877年(明治10年9月24日)

西郷隆盛は幕末期の薩摩藩の武士。故郷鹿児島の盟友・大久保利通と共に薩摩藩をリードして王政復古を実現させ、徳川幕府を倒し、明治政府の成立に大きな貢献をした。維新後、封建制度下の特権を失った不平士族(旧武士)の首領となって西南戦争を起こしたが政府軍に敗れ自刃した。幕末維新を象徴する人物として広く知られている。

幕末維新のシンボル・西郷どん

幕末・維新と言えば真っ先にその名が出てくるほど国民的な知名度が高い西郷隆盛。NHK大河ドラマ「西郷どん(せごどん)の主役! ここでは西郷とはどんな人物なのか、そして何をやった人なのかをなるべくわかりやすく紹介してみよう。

(西郷隆盛についての詳細は「西郷隆盛銅像(幕末トラベラーズ/鹿児島の史跡)」にも載せてあります)

西郷隆盛(通称は西郷吉之助)は1827年(文政10年)注1に鹿児島で生まれ、1877年(明治10年)に鹿児島で世を去った。維新を迎えた明治元年のときに42歳、西南戦争で敗れて自刃したときが51歳だ。(注1 西暦で言えば1828年1月23日)

西郷は江戸幕府を終わらせ、明治新政府をつくるために天からつかわされた男と言っていい。同じ鹿児島の町出身の大久保利通とは幼なじみ。ふたりで力を合わせて薩摩藩をリードし、明治維新政府をつくりあげた功績で、両者とも「維新の元勲(げんくん)とよばれている。 西郷はおもに軍事面、大久保は政治面が得意分野だった。西郷は体育会系、大久保は文化系といっていいかもしれないね。

だから幕末維新の戦乱の時代が終わって、新しい政府や社会の仕組みを細かく作り上げる段階になったとき、大久保はものすごく忙しくなったけど、逆に西郷はヒマになってしまい、よく故郷の鹿児島に帰って犬を散歩させたり温泉に入ったりしていた。最後は明治政府にさからって(ということはつまり天皇にさからって西南戦争を起こしたため、逆賊の汚名を着せられてしまった。


(西郷隆盛誕生地/鹿児島市加治屋町)

故郷鹿児島では大スター

しかしやはり倒幕運動の先頭に立ち、幕藩体制を終わらせて近代国家の扉を開いたという功績があまりに大きかったため、現在では維新の第一人者の座に君臨しているし、国民的な人気も高い。故郷鹿児島では現在も超々がつくカリスマ的大スターである。西郷の座右の銘は「敬天愛人(けいてんあいじん)。大スターとなった秘密はその言葉どおりの人生を歩んできたところにある。

なぜ西郷が維新第一の功臣と言われるまでにすごい存在だったか。なぜそこまで大活躍できたか。 いろんな説明ができるだろうけど、一言でいえば「胆力」が並み外れていたからと言えるだろう。もちろん軍略、政略の才能もすばらしいが、そうした能力だけなら他にもすぐれた人物はいる。

西郷が他人の追随をゆるさないもの。それは堂々たる体格と同様にキモの太さ、幕末日本でもっともキモが座っていた男、というところにあるのではないだろうか。どんな状況にあっても恐れたりたじろいだりしない。自分は天命を受けて事を為すのだという不動の確信がある。 誰に対しても動じない。ということは相手の方が動いてしまうことになる。つまりだれもが結局は西郷に動かされてしまうのだ。 西郷はこうやってどんどん影響力をつよめ、ついには薩摩藩ひいては新政府軍を背負って立つ明治維新の象徴的な人物となったのだ。

島津斉彬に見いだされる

誰もが貫禄負けしてしまうようなそんな西郷が、青年時代から神のごとくに敬っていたのが薩摩藩主・島津斉彬 (しまづなりあきら)だ。

江戸時代、薩摩地方(現在の鹿児島県)は島津家が支配していた。島津家は鎌倉時代の初めから守護職をつとめてきた名家。由緒あり伝統ある家柄だから、ポッと出の徳川家がつくった幕藩体制なんか初めからみくびっていて、自分たちは気分的には独立国のつもりでいたのだ。

だからこそ、西洋の外国船が市場を求めて日本近海をウロウロし始めたとき、日本の端っこにある薩摩藩は「こりゃあヤバくなってきたぞ。自分の身は自分で守らにゃならん」と早くから危機感をもっていたのだ。

とくに名君として知られる島津斉彬は、軍艦や武器などを西洋式の工場で製造する集成館事業という近代化政策をおし進めた。また外交面でも、志を通じる他藩の重役や幕府の高官たちと連絡を取り仲間の輪をひろげ、「外国の侵略を防ぐため、有力な諸侯が連合して日本の改革を進めるべきだ」と意気込んでいた。そして、ペリー来航後の危機のなかで、藩への意見書を提出していた西郷を見いだし取り立てて、一の子分として使うようになったのだった。

島津久光は田舎ものでごわす

こうして西郷は名君・島津斉彬から可愛がられ、斉彬の手足となって、藩の外交官として活躍するようになった。その後、斉彬は井伊直弼 (いいなおすけ)の幕府ファーストの政策に抗議するため、兵を率いて上京しようとしたが、その矢先に急死。前途を見失った西郷は入水自殺をはかったほどだった。

死去した島津斉彬の後をついで薩摩藩の実権を握ったのはその弟である島津久光(ひさみつ)だ。久光は兄の斉彬とちがって日本の未来についてこれといった理想を持っていたわけではなく、単に薩摩藩がグレイトな存在になれば(そして自分がエラい存在になれば)満足なのだった。

西郷はそのような視野の狭い久光を軽蔑し、「殿は田舎ものでごわす」などと言ったものだから、久光は激怒し、以後西郷を冷たくあしらうようになった。ついには自分の命にそむいたかどで、西郷を沖永良部島へ島流しにしてしまった。

西郷が南の島でゆっくりと時を過ごしているあいだに鹿児島では薩英戦争(1863年(文久3年7月))が起きて鹿児島の町が焼かれ、外国(イギリス)の力を思い知ることになる。それまで薩摩藩は外国勢と対決する「攘夷」の方針だったのが、これを機に西洋と積極的に付き合って相手から学んだり力を利用したりするほうが得策だと考えるようになった。

井伊直弼は「安政の大獄」という恐怖政治を行い、幕府に反する人々を片っ端から投獄したり処刑したりしていたが、これに反発した水戸浪士らに江戸城桜田門の前で襲撃され命を落とした(1860年(安政7年3月3日))。


(井伊直弼が暗殺された皇居・桜田門前の交差点)

この桜田門外の変をきっかけに幕府は自分中心主義をやめ、「公武合体」つまり朝廷と協調する方針に変えていった。このことで薩摩藩は政治的にやりやすくなってきた。というのは、朝廷を動かすことで幕府も動かすことができるようになったからだ。薩摩藩は朝廷の公家たちとは太いパイプがある。幕府を動かすためには、朝廷に働きかけて「幕府よ、○○しなさい!」と言わせればいいのだ。

ところが島津久光という人は藩の外に出ると外交下手がモロに出て、部下の手助けがないと何も前に進まないという有様だった。久光の政治を支えていたのは西郷の盟友・大久保一蔵(利通)や家老の小松帯刀(たてわき)なのだった。大久保らは「今こそ西郷が必要なときです!」と久光を説得し、ようやく西郷はゆるされて鹿児島へ戻ることができたのだった。もう政治生命も絶たれていたに等しかったのに、やはり持つべきものは友だね。

公武合体とは「公と武」つまり朝廷と幕府が力を合わせて国難に立ち向かおうという考えのことで、尊皇攘夷(天皇を中心として国をまとめ外国を打ち払おう)とはちがい、考え方としてはより現実的である。この時代、公武合体といえば政治的には「幕府寄り」ということでもあった(現実に政権を握っているのは幕府だから)。いっぽう尊皇攘夷というと急進的な思想をもつ危なっかしい過激な集団が多く(長州藩など)、それは自動的に反幕を指すことが多い。 薩摩藩はそれまで尊皇攘夷的な面もあったが、久光の時代になってから「公武合体」の体制となり、のちに「倒幕(討幕)」へと変わった(より正確に言うなら表向きは公武合体に見せかけ、最終的に討幕という本心を見せたともいえる)。これはもちろん西郷や大久保の誘導があってのことである)

西郷の活躍がはじまる

沖永良部島への流刑から帰ってきてから、幕末のヒーロー西郷隆盛の本格的な活躍がはじまる。まずは1864年(元治元年7月)に起きた「禁門の変」だ。禁門の変とは、前の年に京都を追放された長州藩が、勢力をもり返そうとして京都御所に攻撃をしかけた事件である。

筋金入りの尊皇攘夷藩である長州は、あまりに「攘夷じゃ攘夷じゃ!」と朝廷内で騒ぎすぎたため、頭に来た薩摩藩が「うるさい長州を追い出してしまえ!」と会津藩を誘って、突然長州を京都御所から閉めだしたのだ。これが八月十八日の政変

翌年舞い戻ってきた長州藩は、孝明天皇に会って「自分たちには非はありません。無実です!」と訴えようとして無理やり御所の中に入ろうとしたが、御門を守る各藩の守備兵にはばまれて戦闘になった(禁門の変)。一時は長州軍が攻勢となったが、ここで西郷率いる強力な薩摩藩兵が援軍に来て長州勢を蹴散らし、結局長州は敗れて国元に去っていったのだった。

御所に向けて発砲するというとんでもないことをやらかした長州は、朝廷にあだなすものとされ、「悪の軍団長州をこらしめよ!」という追討令が幕府に出された。つまり長州は朝敵となったのだ。朝敵を成敗するのは征夷大将軍の役目。そこで幕府は1864年(元治元年)の夏から長州に軍を差し向けたのだった(第一次長州征伐)。その幕府軍の参謀役に西郷が任命されたのだ。禁門の変での活躍があったとはいえ、これはすごい抜擢だね。

しかし西郷は長州を軍事的に攻めるつもりはなく、藩主の謝罪、禁門の変の責任者(3人の家老)の切腹、山口城を壊すことなどを条件に、停戦して撤兵することを主張し、実際そのとおりにされた。 なぜ西郷は長州を攻撃しなかったのか? それは将来長州が薩摩の役に立つかもしれないことを考えたためと言われている。つまり西郷は幕府側についていながらひそかに幕府の将来を見限っていて、逆にいま長州を助けてその力を温存させておいたほうが得だろうと判断したんだね。

薩長同盟をむすぶ

このころ長州藩は、(前年に外国船を砲撃した)仕返しにやってきた四カ国連合艦隊と戦って敗北を喫し、京都では禁門の変で無惨に敗れ去り、藩はもうボロボロの状態だったから、幕府が攻めてきたとき「もういさぎよく降参しよう」という意見が優勢となっていた。
そこで長州側は西郷の条件をのんで一旦は幕府に謝罪したんだけれど、その後とっぴょうしもない過激のかたまりである高杉晋作が「雷電のように」藩内クーデターを起こして幕府への恭順派を倒し政権を奪い取ったため、長州藩はまたもや幕府に反旗をひるがえし、藩の方針は完全に「倒幕」で固まった。

こうした長州藩の動きに対して、幕府は「また懲りずに長州のやつらが刃向かってきやがった。こんどこそ許さん!」と憤り、第二次長州征伐が決定されたが、今回は幕府が「長州を叩くために兵を出せ」と諸藩に命じてもやる気のない藩が多く、薩摩藩などははっきりと出兵を拒否した。この時点で薩摩藩も完全に倒幕に固まっていたのだね。

じつは第二次の長州征伐が実行に移される前の1866年(慶応2年1月)に、有名な薩長同盟が西郷と長州の木戸孝允(桂小五郎)の間でひそかに結ばれていたのだ。だから薩摩藩は第二次長州征伐に加わらなかったのだね。
1863年の八月十八日の政変以来、犬猿の仲になっていた薩摩と長州。でも幕府を倒すためには薩摩と長州が手を結ぶことが必要なのは両者ともわかっていた。そこで土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎のはたらきで、長州側が武器弾薬を薩摩名義で購入してもらう(幕府の敵になっていて長崎で外国の物資を買えないため)、かわりに薩摩で不足している兵糧米を長州が融通するという提案を西郷が受け入れるなど、水面下では提携が進んでいた。

しかし薩長同盟を正式に結ぶための最終的な会談は、スムーズには運ばなかった。京都の薩摩藩邸で、両藩のトップである西郷と木戸は会談が始まって12日たっても同盟を結ぼうという話にならない。
西郷は相手が同盟を申し込んできたら「うむ、よかろう!」と快諾するつもりでいたけれど、長州にしてみればいま藩は苦しい立場に置かれているので、こちらから話を切り出せば「たのむ助けてくれ!」という意味になってしまう。あまりにかっこ悪すぎる。木戸はこれでは同盟にならないと考えたのだ。

こうして空しく日がすぎ、もうだめじゃとあきらめて木戸が帰国しようとした前日に坂本龍馬が到着して事の次第を木戸から聞き、西郷に向かって「日本の未来を左右する大事な会談につまらん意地を張りおうてどうする!」と叱りとばしたという話が伝わっている。
とにかく西郷は日本の将来を見据え意地のホコを収めて、結局薩摩側から同盟を申し込んだ。さすが西郷どんはフトコロの深さを見せたというべきか。


(薩長同盟の会談が開始された薩摩藩邸の跡には同志社大学のキャンパスが建っている)

大政奉還そして王政復古

薩長同盟が結ばれ、薩長両藩は武力倒幕(討幕)方針で決まり、朝廷に工作して「討幕の密勅」を出してもらった。討幕の密勅というのは、「徳川慶喜(当時の将軍)をやっつけてしまいなさい!」という天皇からの命令書(=勅)である。 日本では昔から、天皇の命令を実行することは絶対の正義。だから幕府の将軍であろうと堂々と討伐することができるんだね。

ところが敵もさるもので、討幕の密勅が出たのと同じ日(慶応3年(1867年)10月14日)に徳川慶喜は「大政奉還」を朝廷に申し出たのだ。大政奉還とは幕府が握っていた政権を朝廷に返すということ(「征夷大将軍」は本来は朝廷から任命された官職だね)。政権を返してしまえばもう国内の政治には責任がないわけで、薩長軍は将軍慶喜(幕府)を討つ名目がなくなってしまう。
慶喜を討てないということは徳川家はそのまま残る。以前の幕府がなくなっても巨大な軍事力と政治組織をもつ徳川家が残れば、結局彼らが実質的に日本のリーダーを続けることになってしまう。これじゃいかん。新しい日本はつくれない! 幕府であろうとなかろうと徳川家はたたきつぶさねばならん!

そこで、薩摩藩の首脳たちはついに奥の手を出した。西郷、大久保、それに公家の岩倉具視が中心となって討幕派勢力を集めて、幕府と親しい公家らを追い出し、力ずくで朝廷を占拠して、まったく新しい政府をつくったのだ。これが「王政復古の大号令」だね。
王政復古とは、天皇が自ら政治を行っていたころの体制に戻るということ。この新しい政府は、天皇を頂点として総裁・議定・参与という新しい職が政治をとる。徳川家は仲間はずれだ。そしてヤマト政権(大和朝廷)以来、延々と続いてきた朝廷という組織もこの日消滅した(摂政も関白もなくなった)。長きにわたって日本史で中心的な役を演じてきた朝廷と幕府のかたちがまるで蜃気楼のように消えてしまったのだ! こんな急展開の政変は天智天皇や後醍醐天皇もびっくり仰天されるであろう空前絶後の大事件だ。
(ただし「朝廷」や「太政官」などという名称はしばらくの間残ることになる。最初はみんな新政府のことを朝廷と呼んでいた)

西郷は軍事の要となって御所の周囲を固め、クーデターの成功を支えた。新政府の最初の会議(小御所会議)で、幕府に同情的な土佐藩の山内容堂が「徳川慶喜様も参加させたらどうだね」と主張していることを聞いた西郷が「短刀があればいい(ブスッといくぜ)」とドスのきいたつぶやきひとつで容堂をだまらせた、というような超強引な手法でとにかく徳川家排除を徹底させたのだった。

この小御所会議では、徳川慶喜の「辞官納地(じかんのうち)を命ずることも決められた。これは慶喜の内大臣の職と徳川家領地の返上である。つまり徳川慶喜の肩書きも財産も取り上げ、すべての権力を奪い去ってしまうということ。征夷大将軍から一気に足軽に転落させるような話だ。
ただ、これには今まで幕藩体制の主従関係の世界で生きてきた大名たちは、「仮にも征夷大将軍をつとめられた慶喜様をスッポンポンにしてしまうとはあまりでござろう」と反発し、だんだんと薩長の討幕派は旗色がわるくなってきた。このあたりは討幕派の中心である藩の下級武士と、将軍と直接関わりをもってきた身分のある諸侯の違いともいえる。

戊辰戦争で旧幕府軍を駆逐

このままでは慶喜を生き返らせてしまう−−。なんとしても徳川家(旧幕府)の息の根をとめなければ! 執念を燃やす西郷はとっておきの反則技を使った。薩摩藩士たちに命じて江戸の町で乱暴狼藉を働かせたのだ。火付け強盗殺傷何でもありだ。西郷どん、なんというむちゃくちゃなことを! 
これに憤った江戸市中取締役の庄内藩は、狼藉者が逃げ込んだ三田の薩摩藩邸を焼き討ちにしてしまった。もうこうなったら戦争状態と同じである。 この知らせが京・大坂に届くと、旧幕府勢力の怒りと興奮は一気に高まり「薩摩許さん! 討つべし!」の声がうずまいた。このとき大坂城でようすをうかがっていた徳川慶喜は家臣や兵の激憤を抑えきれず薩摩に対してついに挙兵した。こうして鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の緒戦)が始まったのだ。

どんな手を使っても戦(いくさ)を始めねばならない、徳川家(旧幕府)を武力討伐する以外に日本を変えることはできないという固い信念をもっていた西郷の挑発に旧幕府側は乗ってしまったのだ。こうした流れになることを恐れ警戒していた徳川慶喜もついに兵をあげざるを得なくなったのである。

旧幕府軍は数ではまさっていたが、装備は旧式。そして新政府側が用意した錦旗(天皇側であることを示す旗)が戦場に掲げられると、旧幕府軍の士気は一気に萎えた。日本人は本当に天皇の敵つまり朝敵・逆賊にはなりたくないんだね。
この状況に新政府側に寝返る藩も続出し、旧幕府軍は各地で敗北を重ね、敗残兵が次々と大坂に逃げ帰ってきた。 この有様を見て、徳川慶喜は「こりゃもうだめだ〜!」と早くもギブアップを決め、まだ将兵たちが戦いを続けているのに、わずかな供回りを連れて軍艦に飛び乗って江戸に帰ってしまった。

近畿周辺は完全に新政府軍が抑えた。今度はかつての将軍・徳川慶喜が朝敵となり、新政府軍はいよいよ旧徳川幕府の本拠地江戸を目指して出発したのだった。この東征軍の大将は有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)(大総督)。西郷隆盛は東征大総督府下参謀(とうせいだいそうとくふしもさんぼう)という役目についたが、実質的には作戦実行の最高責任者が西郷だった。西郷は文字通り新政府軍の顔となり、江戸攻略に向けて東海道を下っていったのだ。

そして、慶応4年(1868年)3月14日、江戸・田町の薩摩藩邸で、西郷と幕府代表・勝海舟との会談が行われた。勝はすでに静岡まで来ていた西郷に対して、山岡鉄舟を派遣し、「江戸城は明け渡すから江戸を攻めないでほしい。大勢の人々が死ぬ。無駄な戦いはやめようぜ」という頼みを伝えておいたが、江戸での直接対談で改めて西郷に不戦を請い、ついに西郷は江戸城総攻撃中止を決断した。
なぜ勝海舟が江戸城無血開城を求め西郷がそれを受け入れたか諸説あるが、やはり江戸が戦場になることによる国力の損傷は避けたいという点が大きかったのではないか。

しかし西郷の本心は戦争をしたかったのだ。精も根も尽き果てるまで戦って、みんなが「もういい、もう十分だ」という気になって初めて新しい世の中に生まれ変わることができる、革命が成る、というのが彼の持論である。不完全燃焼では、その燃え尽きなかったエネルギーがどこかで噴出する。そしてそのことは後年彼自身の最後の戦(いくさ)の中で証明することになってしまう。

4月11日に江戸城は新政府軍に明け渡された。徳川家康がここに幕府を構えて以来270年以上にわたって君臨した徳川家の牙城がついに「落城」の日を迎えたのである。そして西郷隆盛の最も大きな仕事がこれで完了したともいえる。 。この前後に新政府側に投降した旧幕臣も多くいたが、あきらめの悪い一部の旧幕軍の勢力はその後も、江戸で発生した上野戦争、さらに北越戦争、会津戦争と抵抗を続け、函館戦争の敗北でようやく終焉を迎えたのだった(戊辰戦争終結)。

西郷、新政府に失望する

幕府を倒し新政府を打ち立てるという大仕事を成し終えた西郷は、もう燃え尽きてしまったのか、故郷に帰り田舎でゆっくりと余生を過ごしたいと思うようになった。もちろんただ単に疲れたわけではない。
「自分は一体何をしてきたのか−−。」
西郷が目指していたのは日本を近代化で染めることではなく、心の奥ではむしろ真逆の方向に視線を向けていたかもしれない。命をかけて幕府に挑み討幕を果たし明治維新を実現させたその目的は、かつての純粋な攘夷志士らが目指していたように「古きよき日本の精神」を外国の侵略から守るためである−−彼の生きざまからはそうした本心が見え隠れするのである。

しかしながら、盟友の大久保をふくめ幕府を倒すために戦った武士たちは、みな西洋の風俗に染まりあるいは富や権力のとりことなり、また、これまで幕府に仕えてきた旗本や御家人たちも幕府が倒れるや一転して新政府に媚びるように就職を求め…と、新たな世界には、かれが見たくもない光景ばかりが展開しているのだった。
旧幕府に忠誠を尽くして戦って命を散らしたほうがよっぽどマシな生き方だ−−!
かれは政府に不満をいだき世に失望し落胆して、義憤の沈静とせめてもの安寧を故郷鹿児島の地で求めようと思ったのではないだろうか。

最後の「ご奉公」を終える

ところが成立まもない新政府は、用事をこしらえて西郷をたびたび東京に呼び寄せた。生まれたての政府はいつ転んでケガをするかわからない。生みの親ともいえる西郷が政府にいるだけでも安心できるというものだ。 1871年(明治4年)西郷は懇願されて、しかたなくふたたび政府に出仕、参議に就任した。そして西郷率いる薩摩兵が参加した御親兵の力を背景に「廃藩置県」を断行した。

廃藩置県とは文字通り「藩」をなくして「県」に置き換えること。それまでは一部の地域以外は、(知藩事(ちはんじ)と名前は変わったものの)昔の大名がそのまま藩を統治していた。
廃藩置県によって大名たちは全員クビになり、代わりに中央政府から役人(府知事・県令)が派遣されて地方の行政にあたることになった。
昔の大名から政治権力をすべて奪い、タダの人にしてしまうのだから(彼らは江戸に移住することを強制された)、大混乱が予想され、そのために西郷の力が必要とされたのである。
この廃藩置県によって最終的に封建制度が終わりを告げたといえる、江戸の幕藩体制は残り火もすっかり消えて、完全に新しい明治国家の政治体制となったのだ。

大きな懸案だった廃藩置県が完了し、政府の重鎮たちは「やれやれ、ようやく新しい国づくりが一段落したぞ。気晴らしに海外旅行でもしよう!」とばかり(実際には欧米諸国の政治制度や文化・産業の視察、および江戸幕府が結んだ不平等条約の改正について打診する目的があった)、1871年(明治4年11月)に、岩倉使節団が欧米に派遣された。メンバーは大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、伊藤博文ら政府首脳である。他国の政治や産業を勉強するために政府首脳がそろって国を飛び出して1年半以上も外遊する。こんなに思い切った視察旅行は世界史を見てもほかに例がない。

薩摩の大親分・西郷や土佐の悪童・板垣退助、佐賀の頑固者・大隈重信らはその間の留守政府を任された。外遊組からは我々が帰ってくるまで重大な決定をしてはいかんよとクギを刺されていたが、そんなことを律儀に守る留守組ではない。留守を任された者たちはどちらかといえば体育会系で「いけいけドンドン組」といってもいい。学制、徴兵令、地租改正といった改革を次々と行い、ついには「朝鮮を無理やり開国させてやろう」という征韓論を議論するまでになった。
朝鮮は江戸時代には日本と交流を続けていたが(朝鮮通信使というのがあったね)、明治政府に対しては朝鮮は国交を開こうとはしなかった。それは不都合なことだ、と日本側は考えていた。
今や世界は帝国主義の時代で、中国はすでに西洋列強によって半植民地化されつつあり、その侵略の手が朝鮮半島にのびる前に、こちら側から積極的に朝鮮に関わって少しでも日本に有利な状況にしておかないとヤバイのだ。また征韓論には国内の不満を外征によってそらそうという意図もあった。

ケンカっぱやい板垣退助は征韓論者のなかでも強硬派だったが、西郷はこれとは一線を画し、まず自分が大使として朝鮮に渡ろうと考えていた。そして向こうで自分が殺されたらそれこそ軍を送りこむ口実となる。どちらにしても出兵だ。
欧米視察から帰国した大久保や木戸は、留守政府が征韓論で盛り上がっていることに仰天し、まず内政に集中することが先決だとして反対したが、結局は留守組の興奮を抑えられず、とりあえずは西郷を派遣することで閣議がまとまった。

ところが裏ワザが得意な岩倉具視は閣議の決定を無視し、「西郷を朝鮮に派遣したりしたらロクなことになりませんよ」と反対意見をじかに明治天皇に伝え、天皇がこれを了承。西郷を朝鮮に送る話は一転して無に帰した。これにはさすがの西郷も激怒して辞表を政府にたたき付けて鹿児島に帰ってしまった。
その他の留守組たちも、西郷が辞めるんならオレもオレもということになり、板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎らの参議も辞職。さらに西郷の子分の桐野利秋(きりのとしあき)、篠原国幹(しのはらくにもと)、別府晋介(べっぷしんすけ)、村田新八をはじめ、政治家、軍人、役人など600名以上が一斉に辞職し下野するという異常事態を迎えたのだった(明治6年の政変)。西郷がいかに多くの人物に影響を与えていたかがこのことからもわかるね。

そもそも武士というものは、主君から俸禄(給料)をもらい(上級武士では土地を支給されていたが)、主家や領民や領地を守るために武器をもって戦うというのが本来の仕事だった。しかし1876年(明治9年)、中央政府は「廃刀令」「金禄公債証書発行条例(きんろくこうさいはっこうじょうれい)を出した。これは、刀を取り上げ、俸禄を廃止するということで、士族(武士)の特権を取り上げるものだった。つまり武士というものを名実ともにこの世から消し去るということだ。
これに対して士族たちは怒りを爆発させ、あちこちで何とかの乱というのが次々に起きた。(熊本県で「神風連(しんぷうれん)の乱」、福岡県で「秋月の乱」、山口県では「萩の乱」

西郷ついに立つ!

そして、ついに不平士族の牙城ともいえる鹿児島でも「西南戦争」という大反乱が起きた。「乱」でなく「戦争」という名がついていることからもいかに大規模な戦いだったかがわかる。
当時、鹿児島での士族の反乱を警戒していた政府は、鹿児島の倉庫に保管中の武器弾薬を私学校に使われないよう外部に運び出していたが、これに対抗して私学校徒も火薬庫を襲撃して武器弾薬を奪った。私学校とは西郷が薩摩士族のために設立した軍事教練のための学校である。
こうした衝突のなかで私学校側が捕らえた政府関係者を拷問にかけたところ「政府が西郷の暗殺を企てている」という驚くべき情報がもたらされ、血の気でできあがっている私学校徒らは怒りと興奮で沸騰した。そして幹部の桐野利秋、篠原国幹らを中心に評議が行われ、「もはや決起あるのみ!」との結論に達したのだった。

西郷はそのとき狩猟の旅に出ていたが、帰ってきてこのことを知るや、「おはんらなんちゅうこつをしでかしたか!」と怒声をあげたと伝えられている。しかし結局西郷は私学校徒たちにわっせわっせとかつがれて、明治政府に対する反乱軍の大将として立つことになったのである。
武士の世を終わらせた当人でありながら新政府のあり方に失望していた西郷としては、その武士の魂を最後に見せつけようという気概のみがあったのかもしれない。

明治10年(1877年)2月15日に西郷軍が鹿児島を進発して西南戦争が始まった。西郷軍はまず難攻不落の熊本鎮台(熊本城)を奪って拠点としたかったが、この攻撃に失敗し、つぎに九州への入口にあたる小倉を抑えようとしたがこれも失敗に終わった。

熊本の北方、田原坂(たばるざか)では、熊本鎮台救援のために南下しようとする官軍と、これを阻止しようとする薩摩軍の間で激烈な戦闘が繰り返された。白兵戦を得意とする薩摩兵に対して警視庁抜刀隊も組織された(元新選組隊士の斎藤一もこれに参加している)。
3月1日から半月以上にわたる攻防の末、ついに西郷軍の防衛線が官軍に突破された。この田原坂の戦いをピークとして、後は西郷軍の消耗退却戦となった。結局熊本を攻略できなかった西郷軍主力は、人吉、宮崎、その後北進して延岡へと転戦した。

8月15日に、西郷軍は和田越(わだごえ)の決戦に敗れ、長井村(現・延岡市北川町)で官軍に包囲された。西郷はここで軍を解散して官軍への投降者を切り離し、残った精鋭500名が可愛岳(えのだけ)を登って包囲を突破し、険しい山道を南進した。
鹿児島へ戻ってきた西郷軍は城山に籠もり、包囲する官軍に最後の攻撃をしかけたが、明治10年(1877年)9月24日政府軍の総攻撃により、西郷は腹部と腿に弾を受け、傍らの別府晋介に介錯を頼んで自刃した。享年51(満49歳)だった。


(西郷軍が最後に陣を敷いた城山から桜島を見る)

西郷隆盛は明治維新第一の功臣とされながら、政府に対して反乱を起こしたということで、その後は逆賊の扱いとなっていた。しかし1889年(明治22年)大日本帝国憲法の発布のとき、西郷の名誉回復を望む明治天皇の意向で、逆賊の汚名は返上され正三位を贈られた。明治天皇はじつは西郷のことが好きであり、心からの信頼を寄せていたのだ。
西郷の親友だった旧薩摩藩士・吉井友実(よしいともざね)はさっそく西郷の銅像を建てようと計画し、2万5千人の献金を受け明治天皇からも御下賜金をたまわって明治30年に完成させた。その庶民的な西郷像は今も上野の山で人々の敬愛を集めている。