〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(いいなおすけ)
井伊直弼ってどんな人?

(画像出典:https://www.ac-illust.com/)

井伊直弼(1815年(文化12年10月29日)〜1860年(安政7年3月3日))は彦根藩主で、江戸幕府の大老をつとめた。

日米修好通商条約に調印し、徳川家茂を14代将軍の座につけたあと、みずからの政策に反対する人々を弾圧する「安政の大獄」を行った。これに反発した水戸浪士らによって1860年に「桜田門外の変」で暗殺された。

チャカポン、彦根藩主となる!

井伊直弼 (いいなおすけ) は彦根藩主の子に生まれたのですが、十四男というずいぶん末の子だったので出世の見込みもなく、32歳になるまで独立した一家をかまえることのない部屋住みという身分で過ごしました。
その下宿生活的な暮らしのなかで直弼は、風流に親しみ、茶道や和歌、音楽(鼓)に夢中になりました。そのため当時の人からチャカポンというあだ名をもらったそうです(茶、歌、ポンはつづみ(鼓)の音)。ここでは井伊直弼さんのことをちょっと楽しげなそのニックネームで呼ぶことにしましょう^^。

チャカポンは出世街道からはずれた気楽な趣味三昧の人生を送っていたのですが、藩主と藩主になる予定だった兄二人の死去という出来事、それに他の兄弟たちが養子としてすでに家を出てしまっていたということが重なって、井伊家十四男のチャカポンは思いがけず彦根藩の藩主となってしまったのでした。1850年(嘉永3年11月)、ペリーが浦賀にやってくる3年前、チャカポン36歳のときです。

彦根藩井伊家といえば、徳川家康の側近・井伊直政(なおまさ)が近江国(現在の滋賀県)彦根に領地を与えられ、その後譜代大名の筆頭として幕政を支えてきた格式ある家。その当主となったチャカポンは、ポンポンとのどかにつづみを打ち鳴らしている暇もなくなり、江戸城内の黒書院溜之間(くろしょいんたまりのま)という、将軍の家来の中でもトップクラス用の部屋に入って幕府の政治に関わるようになりました。


埋木舎

(井伊直弼が若き日々をすごした埋木舎(うもれぎのや)。彦根城のお堀のそばにあります。埋木は花を咲かせることもない地中に埋まった木。出世が望めない境遇を自嘲して、自分の住み処にこんな名前をつけたそうです)

安政の大獄を引き起こした将軍継嗣問題とは?

チャカポン(井伊直弼)と聞いてすぐに思い浮かぶのが安政の大獄 (あんせいのたいごく)そして「桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)ですね。 安政の大獄は、大老となったチャカポンがみずからの政策に反対する人々を次々と捕まえ、牢屋に入れたり首を斬ったりした恐怖政治のこと。反対派からは「井伊の赤鬼」などと呼ばれて恐れられました。繊細な風流人にも見えるチャカポンが、なぜこんな恐怖政治をしたのでしょう!? その原因のひとつが将軍継嗣問題 (しょうぐんけいしもんだい)でした。

13代将軍・徳川家定(いえさだ)は病弱で、子の誕生が期待できず(精神的な疾病とも言われています)、次の14代将軍を誰にするかという問題がペリー来航のころから持ち上がっていました。 その将軍候補のひとりは水戸家出身の一橋慶喜 (ひとつばしよしのぶ)で、もう一人は紀州藩の徳川慶福(とくがわよしとみ)。 一橋慶喜は、日本中の尊皇攘夷主義者の親玉として名高い前水戸藩藩主・徳川斉昭(とくがわなりあき)の子です。才気みなぎり英邁の呼び声高く、外国の接近で危機がせまっている日本のリーダーとしてふさわしいという評判が広がっていました。

とくにふだん幕政に参加できない外様大名や親藩のあいだでは、「もう伝統的な幕藩体制では無理だ。聡明な一橋慶喜公を押したてて大名たちが連合し協力していくような政治体制に変えていこうではござらぬか」という考えが有力になっていました。こうした主張をもつグループを一橋派といい、大名のなかでは薩摩藩主の島津斉彬 (しまづなりあきら)や土佐藩主の山内容堂 (やまうちようどう)、越前福井藩主の松平春嶽(しゅんがく)それにもちろん本家の水戸藩・徳川斉昭らが名を連ねていました。

譜代大名としてのプライド

一方、譜代大名の筆頭格である井伊家チャカポンは「伝統的な幕藩体制」を守ろうとします。伝統的な体制とは、権威の象徴である将軍をトップにいただき、実質的な政治は老中(つまり譜代大名)で決め、各大名家を治めていくという方式です。

外様大名や親藩の大名は政治に関わるべきではない。徳川家のマツリゴトはわれわれ直属の臣下(譜代大名)が上様に成り代わって行う。徳川の政治に口出しして天下を混乱させようとする者は断じて許さん!と考えていたんです。
危機を迎えている今だからこそ秩序を正しくし、徳川幕府が中心となって世をまとめ導いていくのが一番確実な方法なのだ。チャカポンはそのように固く信じていました。アヘン戦争(1840-42年)を仕掛けられた清国がなすすべもなく西洋諸国の侵略を受け、日本もまた同様の目に合う可能性が十分にあったなかで、チャカポンの考え方もまたもっともに思えます。

こうして一橋派と激しく対立したチャカポンたちを南紀派(なんきは)といいます。かれらは次期将軍に徳川慶福(よしとみ)を推しました。ヨシトミちゃんは無邪気な坊やで政治的信条も取り立てて持ちあわせていません。でもそれでいいのです。ヨシトミちゃんは現将軍の家定に血筋が近く、家臣の忠誠心が安定し将軍家の求心力も高まるというわけです。実際の政治はチャカポンたち譜代がやればいいということですね。

条約締結問題でも対立!

こうして将軍継嗣問題で対立していた状況を、さらに煽(あお)ったのが、日米修好通商条約の締結問題です。 日米和親条約が結ばれたあと、下田に駐在を始めたハリスは、通商条約の締結をつよく幕府に求めてきました。
そのころ中国ではアロー戦争(1856〜60年)が起きて、清国が英国・フランスに敗れていっそう植民地化が進んだことを受けて、米領事のハリスは「次は絶対日本がねらわれるぞ。清国のようになってもいいのかね? しかしだ。今われわれアメリカと通商条約を結んでおけば彼らも無茶な手出しはできない。選択肢は一つしかなかろう?」などと脅すように条約締結を幕府にせまりました。何か詐欺師のような感じですが、じっさい清国を血で汚した英仏軍が日本には紳士的にふるまうという保証はどこにもありません。

外国に弱腰の幕府はハリスの要求にどんどん押され、しかたなく通商条約を結ぶことにしました。しかし、それまでずっと鎖国していた国が自由貿易を始めることになれば、日本の経済や社会にどんな影響が出るか予想もつきません(実際に日本の社会・経済は大混乱となりました)。
したがって、ここは反対派からの非難をかわすためにも朝廷に許可(勅許)をもらっておこうということになったんですね。政治を行うにあたって幕府が朝廷の許可を得ることなど絶えてなかったことです。

チャカポン、大老となる!

当時老中首座だった堀田正睦(ほったまさよし)は、みずから勅許(ちょっきょ)をもらいに京都まで出かけました。堀田老中は「日本が置かれた状況を考えれば、朝廷だって絶対勅許を出すだろう」と楽勝気分で上京したのですが、朝廷は幕府の予想以上に攘夷主義でこり固まっていて、「帝(みかど)は異人がたいそうお嫌いさんであらしゃりますのや。いま勅許なんか出せしまへんで。またおいで」とあえなく勅許を拒否されてしまいました。
勅許の願いが確実にかなえられるように、朝廷にはたくさんのおみやげ(お金)を持って行ったのにそれもすべて無駄になり、何のために京都まで行ったのかわからなくなりました。かわいそうな堀田さんはガックリして手ぶらで泣きながら江戸に戻ることになってしまいました。

そしてその直後に南紀派の人々の工作により、チャカポンが大老という幕府の最高職についたのでした。京都で失敗した堀田さんはもう用済みということで老中をクビになります。

ついに幕政の最高峰までのぼり詰め、巨大な権力を手にしたチャカポンは、勅許のないまま、1858年(安政5年6月)日米修好通商条約に調印してしまいました。その知らせを聞いた水戸藩の徳川斉昭は怒り狂って江戸城に押しかけ、「やいチャカポン! 朝廷の勅許を得ずに独断で条約に調印するとは何事だ!」と猛抗議しました。また、一橋慶喜本人を含むほかの一橋派の人々も次々とチャカポンに抗議を行いました。慶喜の父・徳川斉昭は日本一の尊皇攘夷主義者と言ってもいい人なので条約の調印をとがめるのは当然なのですが、一橋派には開国を認める人たちもいます。しかしそういう人も、天皇の意思を無視するような行為を強く非難することでチャカポンに圧力をかけようとしたんですね。

ところで、徳川斉昭と大老のチャカポン井伊直弼ではどちらがエライのでしょう。
官職から言えば譜代大名チャカポンは掃部頭 (かもんのかみ) なのに対し、御三家である水戸徳川家は中納言 (ちゅうなごん) の家ですからだいぶ格上です。面と向かえばチャカポンは斉昭に頭を下げ、目上に対する礼をつくさねばなりません。しかし大老や老中は将軍の名代として政治を行っているわけですから、彼らの決定は将軍の決定と同じことで、これに逆らうことはできないのです。
チャカポンは、抗議にやってきた徳川斉昭らを無断で登城した罪に問い、謹慎などの罰を下します。徳川斉昭についてはのちに永蟄居(えいちっきょ)にしてしまいました。つまり終身刑というわけです。これはあまりに厳しい処分ですね。 これが世に言う「安政の大獄」の始まりとなります。

安政の大獄の嵐が吹き荒れる!

そしてチャカポンは長い間の懸案だった将軍継嗣問題でも自分の主張を押し通し、徳川慶福を将軍家定の跡継ぎに決めます。その直後に家定が亡くなったため、徳川慶福は14代将軍に就任し、徳川家茂(いえもち)となりました。
このように国家の重大事を独断でポンポン決めていくチャカポンに対して、これに反発する水戸藩士や攘夷派の志士たちが朝廷に工作し、その威光を借りて幕府をこらしめてやろうと暗躍します。天皇に幕府を叱ってもらうことで、おとなしくさせようとする作戦です。ところがこれが裏目に出ました。

「勝手に外国と通商条約を結んだ幕府はけしからん! 幕府は諸藩と協力して幕政を改め攘夷を実行せよ」という天皇からの命令書が幕府と水戸藩に届きました(この命令のことを「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)といいます)。
国の政策に関わることで幕府にだけ伝えるべき内容の文書が水戸藩に届き、しかもそれが水戸藩の方に先に届き、さらに水戸藩から他藩にも回覧するように指示されていたものですから、「幕府をないがしろにされた!」とチャカポンは激怒しました。
これは明らかに「幕府はアテにならんから水戸藩よ、そなたが中心になって攘夷運動を盛り上げなさい。外国を打ち払いなさい。期待しておるぞよ」という意味に受け取れるものでした。徳川将軍の臣下である水戸藩に直接天皇が命を下したようなものです。

将軍家を支える大老チャカポンとしては、幕政と幕藩体制を真っ向から否定するようなこんな密勅事件を許すわけにはいきません。これをきっかけに安政の大獄が激しさを増していきました。幕府の政策に対して少しでも反対したり邪魔だてしたりした者(おもに一橋派や尊皇攘夷の志士たち)を片っ端から捕まえて牢屋に放り込み、死罪にしたり遠島にしたり、あるいは地位のある者でも隠居させたり謹慎にしたりしました。

教科書に出てくる有名な志士では、開明的大名の松平春嶽の下で活躍していた橋本左内 (はしもとさない)や、長州の松下村塾で教えていた吉田松陰(よしだしょういん)、京都の儒学者・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らが斬首となり、小浜藩の儒学者・梅田雲浜(うめだうんぴん)は獄中で死亡しました。 公家では近衛忠煕(このえただひろ)、鷹司政通(たかつかさまさみち)らが隠居・謹慎、大名家では先にあげた徳川斉昭やその子の(一橋派が擁立していた)一橋慶喜、福井藩主・松平春嶽、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)、土佐藩主・山内容堂らが、やはり隠居・謹慎などの罰を与えられました。このほか100人以上の人々がチャカポンの安政の大獄によって処罰を受けました。

のちに明治維新で活躍する人々(おもに幕府側でない人々)にとっては、この時代はまさに暗黒以外の何ものでもありませんでした。かつての風流人チャカポンはまさしく「鬼」と化したのです。

(安政の大獄については「安政の大獄ってなんのこと?」も見てね)

チャカポン、桜田門外に散る!

しかし、そのような強権政治は長続きしませんでした。とくに尊皇攘夷の本家を自負する水戸藩の家臣たちは復讐の炎をめらめらと燃やしていました。御三家でありながら主君(前藩主)の徳川斉昭を永蟄居とされた屈辱と恨みはすさまじく、なんとしても赤鬼チャカポンを討ち取ろうと画策していました。

1860年(安政7年3月3日)雪の日の朝午前9時ごろ、チャカポンを乗せた駕籠の行列が彦根藩邸を出て江戸城に向かっていました。そしてもう少しで江戸城桜田門をくぐるというときに、待ち伏せていた水戸浪士らに襲われ、チャカポンは命を奪われたのです。これが「桜田門外の変」ですね。幕末は実にいろんな事件の連続でしたが、その中でも超一級の重大事件です。

この暗殺劇の首謀者は水戸藩浪士の金子孫二郎(かねこまごじろう)高橋多一郎(たかはしたいちろう)ら。襲撃者(実行犯)は同じく水戸藩浪士の関鉄之助 (せきてつのすけ) ら18人です。お堀沿いにチャカポンの行列が近づいてくると、道の脇にひそんでいた森五六郎(もりごろくろう)が直訴のふりをして突然飛び出し、それをさえぎろうとした彦根藩士に斬りかかりました。それから双方の斬り合いが始まり、チャカポンの駕籠は駕籠かきが逃げたために雪の上に置き去りにされました。そしてただ一人薩摩藩から参加していた有村次左衛門 (ありむらじざえもん) がチャカポンを駕籠から引きずり出しました。チャカポンは居合術の達人でもあったのですが、駕籠の外から短銃で狙撃されて足を負傷し、動くことができなかったといいます。そして有村の示現流(じげんりゅう)の叫びとともにチャカポンは首を落とされてしまいました。

じつは彦根藩には事前に「水戸浪士らがチャカポン様のお命を狙っているらしい」という情報が入っていて、警備を厳重にしたほうがよいという声もあったのですが、チャカポンは、「そんなことをすれば、幕府大老たる自分が下した処断に対して、自身が怖じ気づいていると見られる」とし、平常通りの行列を続けたといいます。
しかしチャカポンはこれだけの独裁政治を行って多数を処罰し命を奪ったのですから、おそらくそれなりの覚悟はできていたのではないでしょうか。


桜田門

(警視庁庁舎側から見た皇居桜田門前の交差点。奥に見えるのが桜田門。道路の左の方からやってきた井伊直弼の行列はこのあたりで襲撃されたといいます)

チャカポンは多くの政敵から恨みと憎しみを受けましたが、チャカポン自身は自分が最善と信じる道を進んだのでしょう。
日本がずっと手本とし大国と仰いできた中国が、いとも簡単に西洋諸国に侵略され、半植民地のようなあわれな状況におちいっているのを知れば、何としてもそのような事態だけは防がなければと考え、そのために非常の措置を断行していくのも無理からぬことだったと思われます。

チャカポンは、日米修好通商条約締結に際しても、ハリスとの交渉担当者だった井上清直(いのうえきよなお)岩瀬忠震(いわせただなり) に対して、朝廷の勅許が出るまでできるだけ調印を引き延ばすように命じていました。つまりチャカポンも勅許がないままの調印は望んでいなかったのですが、日本の国を守るためには独断調印もやむを得ないと判断したのですね。

ただ、自分の信念を貫こうとするあまり、将軍継嗣問題で対立した人々を容赦なく粛清し、多くの有能な人材を滅ぼし、才能を活かす機会を奪い取ったことで、国の未来に大きな損失を与えてしまったという批判はまぬがれないところでしょう。日本の未来を考えてというよりは、単に幕府の安泰のみを考えていたのだという見方をする人の方が多いといえます。本当のところはどうだったのか、チャカポンの本心はチャカポンにしかわからないのでしょう。

もともと幕府は強大な武力を背景に日本を統治してきた機関です。その事実上の最高権力者が、わずか十数人の武装グループに襲われて殺害されたという事件はとてつもないショックを幕府に与えました。
桜田門外の変により、強い幕府の復活をめざしたチャカポンの思いとは真逆に、幕府の権威は一気に低下してしまいました。これ以降、政局の主導権は朝廷を擁する西国の雄藩に握られ、幕府は滅亡に向かって突き進むことになったのです。


井伊直弼像

(彦根城内に立つ井伊直弼の銅像。直弼は反対派の怨嗟の的となりましたが、彦根市民にとっては「開国の英断」を下した英雄です。井伊直弼の生き様を描いた舟橋聖一著『花の生涯』は第1回NHK大河ドラマとして放映され、記念碑が直弼の銅像近くに建てられています)

もうちょっと詳しく…

京の都で暗躍した長野主膳

安政の大獄は、京都周辺が主な「舞台」となりました。それはペリー来航以来、にわかに朝廷の存在感が高まったからです。外国に弱腰の幕府という印象がつよくなると、外様大名や親藩の大名たちは、朝廷の公家に工作をし、朝廷を通して幕府に働きかけ政治に参加しようとしました。そのときに必要となるのが京都での工作員です。当然ながら工作員は優秀な頭脳をもち外交にすぐれている必要があります。

越前福井藩の松平春嶽は橋本左内、薩摩藩の島津斉彬は西郷隆盛、水戸藩の徳川斉昭は安島帯刀(あじまたてわき)や鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)らを使って、それぞれ親しい公家に接触し、朝廷の上層部や天皇を動かそうとしました。こうした工作員は安政の大獄のときに真っ先に摘発の対象となり、最後は死罪などの重刑を科せられました。

取り締まる側の井伊直弼も「京都工作員」を持っていました。それは長野主膳(ながのしゅぜん)という国学者・歌人です。直弼は彦根藩主となる前に、茶道や和歌などの芸事や国学などの学問に精を出しましたが、そのとき直弼に国学や和歌を指導したのが長野主膳です。 つまり長野は直弼の先生だったのですが、のちに直弼が幕府大老となると、公家とのコネクションを持ち教養豊かな長野は、外交・情報収集の適任者として安政の大獄を行う直弼の手先となって働くことになります。そして京都所司代や京都町奉行所を動かして容疑者らの捕縛を進めることになりました。老中の間部詮勝(まなべあきかつ)もまた直弼の支配下にあって京都で活動を繰り広げます。長州藩の吉田松陰が暗殺しようとしたのがこの(井伊の赤鬼に対して)青鬼と呼ばれた老中間部詮勝でした。