〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代(幕末)

(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)
日米修好通商条約ってなんのこと?

(画像出典:https://www.ac-illust.com/)

日米修好通商条約は、1858年(安政5年6月)に日本とアメリカ合衆国(全権はタウンゼント・ハリス)との間に結ばれた条約。神奈川・長崎・兵庫・新潟を開港し、自由貿易の許可などを取り決めた。

アメリカに領事裁判権を認めたほか、日本に関税自主権がないという不平等条約だった。

名実共に日本が開国!

幕末期のはじめに結ばれた有名な条約として、「日米和親条約」「日米修好通商条約」がありますが、この2つの条約の大きな違いはなんでしょうか。
そうですね。通商(貿易)に関する規程があるかないかということです。
日米和親条約の内容は、アメリカの船に特定の港を開放して補給などを行うだけのことなので、「鎖国を破った」とは言っても、実質的にはそれまでと大きな変化はありませんでした。幕府は1842年に「薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出して、やむを得ず避難してきた外国船に薪水を与えるという方針をすでに取っていましたよね。

これに比べると、日米修好通商条約は名実ともに日本を開国させた条約です。いいかえれば、日本が国際社会の一員となり、欧米の資本主義の枠組みの中に入ることになった条約でもあります。
ではこの条約の主な内容を見てみましょう。

日米修好通商条約のおもな内容

1.神奈川・長崎・兵庫・新潟を開港する(このほか箱館は引き続き開港。下田は閉鎖)。江戸、大坂を開市(かいし)する。

2.日米の商人同士で自由貿易を行うことができる。

3.開港場にはアメリカ人が住むことができる(ただし居住できる範囲は決まっている)。

4.アメリカの領事裁判権を認める。

5.協定関税率制度とする(=関税自主権がない)。



それぞれについて少し補足しますと、

1.新たに4つの港がアメリカに開かれました。これらのうち、神奈川はのちに横浜に変更されます。幕府は、にぎやかな東海道の宿場である神奈川宿を開港場にすることで外国人との間にトラブルが起こるのを恐れ、対岸にある横浜村を開港場とします。小さな村でしかも不便なので外国は抗議しましたが、幕府は「横浜村も神奈川の一部だ」と言い張ったのです。
(神奈川は今のJR横浜駅付近に当たります。交通の要地である横浜駅と横浜市の中心部がけっこう離れているのはじつは幕府のせいだったんですね)

長崎は昔から開かれていたのでは?と思う人もいるかもしれませんが、以前はオランダと中国を相手に幕府(長崎奉行)に完全に管理された貿易が行われていたので、この条約とは形態が異なります。また箱館は日米和親条約ですでに開港していましたが、やはり貿易港として改めて整備されることになりました。

新潟は新田開発で日本有数の賑わいを誇っていた町でした。北前船の重要な寄港地で今でも日本海側の中心的な都市ですね。
兵庫はのちに利便性の理由で神戸に変更されました。
江戸・大坂の開市(かいし)
というのは、アメリカ人が江戸・大坂の町に入って商売の取引ができるようになったということです。

2.自由貿易が許可されたというのが、日米修好通商条約の最大の特徴です。それまで鎖国していた国が急に自由貿易をはじめるとどうなるか。後で述べるように国内の経済は大混乱になりました。

3.開港場にはアメリカ人が住むことができるエリア(外国人居留地)が設けられました。また一般のアメリカ人は開港場からおよそ40km四方は自由に移動できましたが、それ以外の所へ旅行をするには特別な許可(内地旅行免状)が必要でした。
有名な生麦事件は、横浜に住んでいた外国人が多摩川の手前側にある川崎大師に旅行に行く途中で起きました(横浜〜多摩川は自由に移動できる範囲に入っていました)。

4.領事裁判権とはこの場合「日本に滞在するアメリカ人がアメリカ領事の裁判を受ける権利」ということです。日本国内で犯罪を犯したアメリカ人が幕府の奉行所ではなくアメリカの領事によってアメリカの法律に則った裁判を受ける権利をもつとき、「アメリカに領事裁判権がある」といいます。 当時日本はまだ憲法もなく近代的な法律体系が存在しませんでした。アメリカはそのような法律が未発達な国の法で自国民が「不当に」裁かれることを拒否して領事裁判権を認めさせたのですね。アメリカ人は(はりつけ)にされたり首を斬られて獄門台にさらされるなどという心配はしないですんだのです。

5.協定関税率制度というのは、関税を決めるのに相手国の承認を必要とする制度です。言いかえれば「関税自主権がない」ということです。
関税というのは輸入品に税金をかけて、輸入品の値段を高くすることですね。もし関税の制度というものがなく、安くて質のいい外国の品物が無制限に国内に入ってくれば、自国の商品をだれも買わなくなり、国内の産業は衰退してしまいます。こうしたことを防ぐために関税があります(もちろん関税を取ることで国の収入が増える利点もあります)。
ですから関税は、国の産業や経済を守るためにすごく重要なものです。その関税をどれくらいかけるか(関税率)を自国の意思で決められないというのは独立国家としての体裁が整っていないということにもなりますね。
この領事裁判権と協定関税率制度があることで、日米修好通商条約は不平等条約とされています(日米和親条約と同様、不平等な片務的最恵国待遇もそのまま継続しています)。

条約の大問題その1 勅許なしの調印

長いあいだ幕府は政治を行うにあたって、朝廷に相談をしたり許可を取ったりなどということはしませんでした。日米和親条約のときも報告のみで独自の判断で条約を結んだのです。
しかし、日米修好通商条約は日本の行く末を左右する重大な決定になると考えられたため、老中首座の堀田正睦(ほったまさよし)は朝廷に勅許(天皇の許可)を願い出ます。しかし朝廷は回答を保留し勅許を出しませんでした。

ちょうどそのころ中国ではアロー戦争(1856〜60年)が起きて、清国が英国・フランスに敗れたことから、ハリス「早くわれわれアメリカとちゃんとした通商条約を結んでおかないと、英仏らが日本に戦争をしかけてくるぞ」と幕府に警告しました。
国家の非常事態とみた幕府は彦根藩の井伊直弼を大老にして事態の打開を託します。井伊は日本を守るためには条約を結ぶしかないと判断し、勅許が出ないままハリスと日米修好通商条約を調印することにしたのです(1858年(安政5年6月))。

しかし天皇(孝明天皇)の意向を無視するような条約調印(違勅調印)によって、世の中に幕府への批判や反感が高まることになりました。それと同時にこれまで政治的には蚊帳(かや)の外に置かれていた朝廷が、急に政治の表舞台に出てくることとなったのです。
(このあと将軍継嗣問題・違勅調印問題で井伊の政策に反対した人々を弾圧する安政の大獄 (あんせいのたいごく)が起きました)

条約の大問題その2 超物価高

通商条約が結ばれて自由貿易がはじまり、日本からはおもに生糸や茶が輸出され、外国からは毛織物、綿織物、武器などが輸入されました。しかし長いあいだ鎖国をしていた日本はほぼ日本国内で品物の流通が完結していましたから、それまで国内向けだった品が輸出に回ることで、当然国内は品薄になります。
とくに日本産の生糸は欧米で人気となり、最初のころ輸出品の8割が生糸でした。生糸・茶・蚕卵紙 (さんらんし)などは生産が追いつかず、他にもいろんな必需品が足りなくなり、物価がどんどん上がって人々の暮らしは苦しくなりました。

貿易でひと儲けしようという商人たちが、産地から国内の問屋などを通さずに商品を直接横浜に運び出してしまい、そのため従来の流通のシステムが機能せず、経済の混乱に拍車をかけることになりました。そこで幕府は「五品江戸廻送令 (ごひんえどかいそうれい)というのを出して、生糸・雑穀・呉服・蝋 (ろう) ・水油(髪の毛につける油のこと)の5種類の品に関してはかならず江戸の問屋を通しなさいよ、と命じたのですが結局あまり効果はありませんでした。

物価高の原因は、通貨の交換問題にもありました。
貿易を行うには通貨の交換レートを決めておく必要があります。当時世界的にはひろく銀貨(メキシコ銀)が使われていました。もし日本の貨幣も銀貨だけならよかったのですが、問題は日本では基本となる貨幣が金(小判)だったところにあります(ただし西日本では銀がよく使われていました)。そして補助貨幣のひとつとして一分銀 (いちぶぎん) という四角い銀貨が使われていました。
一分銀は額面でいうと4分の1両。つまり一分銀4枚で小判1枚(つまり金)と交換できます(これは幕府が保証しているレート)。ところが金銀そのものの価値を国際的な相場からみると、銀に比べて金がとても割安に設定されていたのです。具体的には、同じだけの銀を持っていても日本なら3倍の金と交換することができたのです!

幕府はそのことをあらかじめ調べていて、金の価値を中心に考えれば(つまり一分銀が小判に両替できることを考慮すれば)「1ドル銀貨=一分銀1枚」のレートが適当であると主張したのですが、ハリスはあくまで銀貨に含まれる銀の量が同じでなければフェアじゃないとして、「1ドル銀貨=一分銀3枚」にせよと強硬に言い張り、結局幕府はそれを認めてしまいました。

するとどういうことが起きたかというと、たとえばアメリカ人が母国から持ってきた1ドル銀貨を日本の一分銀と交換します(1ドルあたり一分銀3枚)。その一分銀を小判に両替して海外に持ち出し、金として売れば、単純に計算して持ち金が3倍になるということです。
両替を繰り返すだけで、まさに濡れ手に粟(あわ)のボロ儲けができるということで、外国人が争ってこんなことをしたものですから、日本からは莫大な量の金が流出してしまいました。
この流出を防ぐために幕府は流通していた小判を回収して、金の含有量の少ない万延小判に改鋳しました。しかし質のわるい小判が出回ったことでインフレが加速し、ますます物価が高くなったのでした。

幕末に攘夷運動(じょういうんどう) (外国を排斥する運動)が盛んになった原因として「神国日本を外国の文化で汚すな」というような思想的な面からの反発もあるのですが、むしろ自由貿易や貨幣改鋳などによって人々が経済的に苦しくなり、「外国人のせいで暮らしがメチャクチャになった」という思いが攘夷運動を後押しした面が大きいといえるでしょう。そしてまたそうした状況を招いた間抜けで弱腰で役立たずの幕府なんかなくなってしまえ!という倒幕運動へつながっていったといえます。

もうちょっと詳しく…

条約調印のその後は

幕府は日米修好通商条約を締結したあと、オランダ・ロシア・イギリス・フランスと次々に同じような条約を結びます。これらをまとめて「安政の五カ国条約」といいます。
これらの条約すべてに領事裁判権協定関税率制度の条項が含まれていましたので、のち明治政府は条約改正にたいへん苦労することになります。

条約改正が実現するまでには本当にいろいろな紆余曲折があったのですが、結局1894年(明治27年)に「日英通商航海条約」を調印したあと、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシアなどとも同じ内容の条約を調印して、領事裁判権の撤廃を実現させました。
また、1911年(明治44年)に「日米通商航海条約」を改定したあと、イギリス、フランス、ドイツなどとも同様に通商航海条約を改定して、関税自主権を完全に回復しました(ロシアとは日露戦争後の1907年に回復しています)。

また、どの条約も朝廷の勅許を得ないまま結ばれ、攘夷派の人々からは「破約攘夷(はやくじょうい) (条約など破棄して外国を追い払え!という主張)」が叫ばれるなど開国方針に対する反対の声が大きく、とくに朝廷は条約に勅許を与えることを強く拒否していました。
幕府も勅許を得られないことを理由に、開港・開市の延期を列強諸国に申し入れていましたが、待ちきれなくなった外国の艦隊が兵庫沖に侵入して圧力をかけたため、1865年(慶応元年9月)ついに朝廷の勅許が出されました(京都に近い兵庫の開港だけは孝明天皇の没後1867年(慶応3年5月)になってから勅許が出ました)。
これでようやく日米修好通商条約(安政の五カ国条約)が大手を振って施行されることとなったのです。

【参考文献】

・笠原一男著『日本史研究』山川出版社、1997年

・藤田覚著『幕末から維新へ』岩波新書、2015年