(たいせいほうかん)
大政奉還ってなんのこと?

大政奉還とは、1867年(慶応3年10月14日)、徳川幕府15代将軍・徳川慶喜が、幕府が持っていた政権を朝廷に返還したことをさす。
徳川慶喜は、薩摩・長州両藩を中心とした反幕府の連合軍が討幕の兵を上げる前に政権を返還することで討幕派の矛先をかわし、引き続き自らの影響力を保持することを狙ったとされる。
大政奉還
「返還した」ということは、もともと日本の政権は朝廷(天皇)にあったということを意味していますね。鎌倉幕府以来、武士たちが実質的に日本を治めてきましたが、徳川慶喜はその政権を目に見える形ではっきりと朝廷に返還したのです。これはとても画期的なことと言えます。
とはいっても慶喜は、「幕府はもうダメです。あとはどうぞよろしく。さようなら」と言って政治の世界から引退しようとしたわけではありません。
それどころか気持ちはその反対で、「幕府はなくなってもまだまだ徳川家の時代は続くぞ。勝負はこれからだ!」というつもりで政治の実権を握り続けるべく計画をねっていたと言われます。
だからこそ薩摩藩を中心とした倒幕派は、朝廷を通じて「王政復古の大号令」を出すことにより、徳川家を排除した形で新政府をつくる必要があったのですね。
どういうことなんでしょうか。「大政奉還」と「王政復古の大号令」の違いは何でしょう?
話をわかりやすくするために、ここで大政奉還までの道筋を簡単に振り返ってみましょう。
1853年にペリーが来航して翌年日本が開国し、列強諸国の影響力が急速に高まってくると、それまで幕府政治にただ従っていただけの大名家(藩)のうち、いくつかの先進的な藩では、「このままでは日本は危ない。政治を幕府任せにはしていられないぞ」という意識が急に強くなりました。薩摩藩がそうした藩の代表格です。
(その他立場は個々に異なりますが、土佐藩、越前福井藩、佐賀藩、宇和島藩、長州藩、水戸藩などが改革指向のグループに入ります。ここではそうした諸藩を、保守的な幕府に対して「改革派の藩」と呼びましょう。もちろん幕府内部にも「改革派の幕臣」はいました)
薩摩藩などの改革派の藩は、現在の幕府中心の政治ではなく、有力な諸侯(藩)の連合によって政策を決める(列侯会議)という形で、現在の難局を切り抜けるべきだと考えていました。しかしこんな主張を藩からそのまま幕府にぶつけたところですんなりと実現するはずもありません。
そこで彼らが頼ったのが古来からの権威である朝廷(天皇)です。朝廷の公家たちを動かせば、幕府を動かすこともできるだろうというわけですね。場合によっては天皇の命令(勅令)という形にすることもできてしまいます。
こうして幕末期を通して、幕府と改革派の勢力のあいだで、政治の主導権をめぐるせめぎ合いが続きました。
そして幕末の最終局面に入り、幕府側では最後に15代将軍・徳川慶喜が登場します。それまでの幕府将軍とはまるで異質の人物です(ラスボスと呼ぶには少し軽い感じもしますが、倒幕(討幕)派にとっては非常に手強い存在でした)。将軍慶喜はみずから政治の先頭にたち、得意の政治力・外交力を駆使して弱体化しつつあった幕府を立て直そうとしました。
そして政局は、「徳川慶喜 対 薩摩藩を中心とする改革派」という構図になっていきました。政治の主導権をどちらが取るか、その最後の山場になったのが、1867年(慶応3年5月)に開かれた「四侯会議
四侯会議とは、島津久光(薩摩藩)、松平春嶽
日米修好通商条約で開港が決まった港のうち、京都朝廷に近い兵庫の開港だけは天皇の許可(勅許
幕府が条約で開港を約束したのに、天皇の不許可で開港できないとなると、幕府が日本の政府として機能していないということになってしまいます。
そのため徳川慶喜はなんとしてもこの会議の中で、朝廷から兵庫開港の勅許を出してもらい、引き続き幕府が日本の政府としての地位を確保できるようにしたいと考えていました。
一方で薩摩藩らは、慶喜の意図をくじこうとしてあの手この手で対抗するのですが、慶喜の気迫と熱弁の前になすすべなく、会議の主導権はほとんど慶喜が握り続け、ついに慶喜は朝廷から兵庫開港の勅許を得ることに成功したのです。
薩摩藩のトップである島津久光は(というより薩摩藩を実質的に動かしていた西郷隆盛・大久保利通らは)このことにより、徳川慶喜がいかに危険な存在かを実感します。この状況を放置すれば、どのような会議を開いても慶喜の思うように進められてしまうということです。四侯会議での慶喜の勝利は、慶喜が朝廷を自分の望み通りに動かすことができるという印象さえ与えました。
慶喜は博識で計略にすぐれ雄弁の才があります。なにより彼自身が将軍であるため、幕藩体制の仕組みのもとでは、大名以下すべての武士は将軍慶喜の命に逆らうことができません。これは改革派側にとって致命的なハンデですね。
そこで薩摩藩は、「日本の政治を根本から変えるためには、もう力ずくで幕府を討つしか方法がない!」と思い至り、すでに軍事同盟(薩長同盟)を結んでいた長州藩と共に討幕を決意します。そして朝廷内部の(改革派の)仲間である岩倉具視
これに対して徳川慶喜は、薩長両藩が討幕に向けて動き出したことを察知しており、先手を打って『幕府の政権を朝廷にお返しします』という上表(
政権を返してしまえば、薩長側は「(悪政を行っている)幕府を討つ」という理由がなくなってしまい、兵をあげることができなくなってしまうわけですね。
大政奉還の上表を提出した日はなんと討幕の密勅が下されたのと同じ日(慶応3年(1867年)10月14日)で、大政奉還の上表は翌日受理されました。薩長の討幕計画は肩すかしを食らったかたちで頓挫
大政奉還によって薩長の動きを封じるという徳川慶喜の狙いはズバリ当たったわけです。ではその真意は何だったのでしょうか。
朝廷の方から見れば、もう長らく日本の政治の中心から離れているので、政権をいきなり返してもらっても実際問題として困るわけです。そこで結局は最大の軍事力と領地・経済力を持ち、内政外交を担ってきた徳川家に頼らざるを得ない。徳川慶喜としては、幕府が消えて新政府ができても、徳川家当主である自分が主導的な地位につくことになるだろうという目算を立てていたと言われています。
薩長を中心とする討幕派の方は、もちろん慶喜の狙いはわかっています。なんとかして徳川慶喜を排除した形で新政府を打ち立てなければ、結局は従来の幕府政治の延長になってしまう。こうした危機感から、宮廷クーデターを企てることになります。
そのクーデターとは、薩摩藩とその仲間の藩の兵(土佐藩・広島藩・尾張藩・福井藩の計5藩。長州藩は直前まで朝敵という立場だったので、京都に近づくことはできませんでした)が事前に示し合わせて、幕府と親しい公家を締めだした状態で御所の門を閉じ、明治天皇が新たな政府の設立を宣言したことを指します。この宣言が「王政復古の大号令」ですね。
王政復古の大号令には、政府の組織として「総裁・議定
しかし、これですんなりと徳川慶喜抜きの明治政府ができたかというとそんなことはありませんでした。結局は、新政府側と旧幕府側の戦い(戊辰戦争)となり、武力で決着がつくことになったのです。
キーパーソンだった土佐藩主従
幕府が混迷する政局を打開するために朝廷に政権を返すという「大政奉還」の考え方自体は、じつは前々からあり、越前福井藩で活躍した横井小楠や幕臣の大久保一翁などが提唱していました。ただ250年以上の歴史をもつ幕府(将軍)がこれを実行に移すのは大変な英断が必要です。
しかし、風雲急を告げる時勢のなかで力をつけた薩長両藩など討幕派が幕府に迫ってくると、幕府も何とかこの緊急事態に対応しなければなりません。
そこで土佐藩の後藤象二郎は、「ここで改めて大政奉還を幕府に提案してはどうでしょうか」と、土佐藩トップの山内容堂に進言しました。
容堂はすぐに賛同し、容堂が将軍慶喜に建白書を提出し、慶喜がこれを受け入れる形で大政奉還が実現したというわけです。
(後藤象二郎はもともと坂本龍馬から大政奉還論のアイデアを受けたとされています。ただしいわゆる「船中八策」は史実ではないという見方が有力です)
土佐藩がなぜそうした役回りをしたのか? ということですが、理由のひとつとして、土佐藩は薩摩藩と同じ「改革派の藩」のグループに入っていながら、かなり幕府寄りのスタンスを取っていたということがあげられます。
土佐藩山内家は、藩祖・山内一豊が関ヶ原の戦いに貢献した恩賞として徳川家康から土佐一国を与えられたということに恩義を抱いていたのです。
したがって薩長が進める武力討幕には否定的で、幕府がつぶれても徳川家は生き残れるような方策として大政奉還を提案したと言われています。
薩長主導の討幕を阻止し、自分たちが新政府設立に寄与することで新しい体制下で自藩の地位を確保したいという思惑ももちろんありました。
土佐藩の山内容堂(また越前福井藩の松平春嶽)らは、従来の幕藩体制に代わる新政治システムとして、「公議政体」と呼ばれる大名らの連合体による議会政治の実現を描いていました。容堂はこの公議政体の中心的な役割を担う人物には徳川慶喜がふさわしいと考えていたのです。また、慶喜自身もまたそのような見通しを抱いていたことから大政奉還に踏み切ったと考えられます。
二条城で行われた大政奉還の諮問
徳川慶喜は京都の二条城において、大政奉還を行うことを在京の武士たちに諮問
このときの様子を描いた有名な絵画が、邨田丹陵
慶喜は10月14日に御所に参内して、大政奉還を天皇に奏上し、翌15日にこれに対する勅許が出て大政奉還が成立したということになります。
・田中彰著『日本の歴史 開国と倒幕』集英社、1992年