(くろふねらいこう)
ペリー来航(黒船来航)ってなんのこと?
ペリーは1853年(嘉永6年6月3日)4隻の軍艦を率いて浦賀にやってきた。幕府は艦隊の来航にあわてふためいた。なぜあわてたかと言えば、4隻のうち2隻が蒸気船という当時の日本人が見たこともない新型の軍艦であり、しかも超高性能の大砲を備え付け、しかも砲門を開いていつでも攻撃可能という戦闘状態でやってきたからだ。こんなに日本に対して威圧的に出た外国船はこれまでなかった。
なぜペリーはそんなに攻撃的な態度で来たのか。それには理由がある。
じつはペリー来航の7年前の1846年には、アメリカの軍人ビッドルが2隻の帆走式の軍艦を率いてやはり浦賀にやってきた。その使命はペリーと似たようなもので、日本を開国させて通商を始めたいというアメリカの要望を伝えることだ。
しかしビッドルは軍人にしてはすごく温厚な人物だった。開国を打診された幕府は「やだ! 開国なんてやだ!」と言い張り、紳士的なビッドルさんを追い返してしまった。 だからペリーが現れたときも、なんとか追い払えるんじゃないかとタカをくくっていたのだ。
しかし同じアメリカ人でもペリーは違った。彼はどんなことがあっても絶対日本を開国させてやる!という岩のように固い決意で日本に来たのだった。そのためにはビッドル先輩のような優しいやり方ではダメだ。オレは超体育会系だ。なめたらイカンぜよ。カツアゲでも何でもやってやる! これがオレ流の「砲艦外交」だ!
(ペリーについては「ペリー上陸記念碑」も見てね)
ペリー艦隊に搭載された艦砲は、日本が持っている大砲に比べ、射程距離、破壊力、命中精度すべてにおいてはるかにすぐれていた。旗艦サスケハナ号の主砲であるパロット砲の射程は7km以上とされる。先端がとがった細長い砲弾で真っ直ぐ飛ぶように砲身の内側にライフリング(打ち出す弾に回転を与えるためのらせん状の溝)が施されている。そして着弾すれば炸裂する榴弾
もし江戸湾深く入り込めば江戸城だって危ない。それに加え、ペリー艦隊はボートホイッスル砲という持ち運び可能な小型の大砲も装備していた。これなら軍艦が入り込めないような浅瀬でもカッターボートに載せて運べば、どこからでも砲撃が可能となる。
米艦隊の乗員と最初に接触したのが、浦賀奉行の役人・中島三郎助。彼はサスケハナ号の内部を見学させてもらったから、艦隊がもつ恐ろしい武力について詳細な報告が江戸城の首脳になされたことだろう。
幕府首脳はふるえあがった。
武力的には全く大人とコドモじゃないか! 開国を求めるアメリカ大統領の親書を幕府高官に渡したいというペリー側の要求に対して、最初幕府は口をとがらかして「やだ! そんなもの受け取りたくない! 外交の窓口は長崎だからそっちに行っておくれよ!」と抵抗していたが、結局は武力行使もちらつかせるペリーの高圧的な態度に屈してしまった。
もしペリーを怒らせて本当に江戸の町に艦砲射撃などをされたらたまったものではない。大砲の射程距離からして日本側はまったく反撃不能なのだから、一方的にやられるのみ。サンドバッグ状態である。
そのまま清国の例のようにどんどん侵略を受けてしまうか、そうでなくとも「日本を守れんような幕府などいらん!」ということになり、有力な大名が結んでクーデターを起こし幕府はすぐにも倒されるかもしれない。(もともと幕府の主である征夷大将軍は、夷人つまり異民族・外国人を退治するために朝廷から委任された官職だ)
恐れをなした幕府は急に腰を低くして、浦賀の隣にある久里浜
幕政の最高責任者は老中首座・阿部正弘
阿部は「この国難に際して日本はどうすべきか、みんなはどう思う?」と、世の中の「みんなの意見」を募集してしまったのだ。この「みんな」には、大名から庶民まであらゆる階層が含まれる。前代未聞の民主的な幕府になってしまったのだった。徳川家康が聞いたらその場で気を失って倒れてしまうに違いない。
かつて鎌倉幕府の執権・北条時宗
ともかくこれをきっかけに、外様大名らはこれまで政治的には蚊帳
もともと阿部正弘は薩摩藩の島津斉彬など外様大名の意見に耳を傾けるようにはしていたのだが、ペリー来航後に水戸藩の徳川斉昭を海防参与として、正式に幕政に参加させるなどしたことが、いっそう各大名家の発言力を高めることになってしまったのだ。
阿部正弘の協調精神は結果的に幕府の命を縮めてしまったといえるが、一方で危機に対処するためひろく人材発掘につとめたおかげで、勝海舟や岩瀬忠震
日本を去ったペリーは、アメリカ本国に戻ることなく香港で待機し、7カ月後の1854年(嘉永7年1月16日)、再び浦賀にやって来た。前回は軍艦4隻だったが、今回は7隻(その後2隻が加わり9隻となる)と艦艇数が倍増した。「さあこないだの返事をもらおうか。これだけの軍艦を目の前にして、まさか我々の要求を断るということはないだろうね?」という脅しである。
考えてみれば実に身勝手で一方的な行為で、幕府にしてみれば「ボクは何も悪いことしてないのに、何故こんな面倒に巻き込まれないといけないの?」とぼやきたくもなるが、しかしながらこれが物欲にかられた人類がつくってきた世界史の流れというもの。
それにアメリカに対しては、以前(1837年)日本の漂流民を送り届けに来てくれたアメリカ商船「モリソン号」を砲撃して追い払ってしまったという負い目も少しある(砲撃と言うと激しく攻撃したように聞こえるが、実際には貧弱な武器のため相手側に実害はなかった)。
どちらにしろ、日本としてはもう開国以外に選択肢はなかったといえるだろう。すでに1700年代の終わりころからロシアは日本との交易に興味を抱いて盛んにアクセスを繰り返していたし、また唯一西洋諸国で交易関係があったオランダは、以前から日本に対して「世界情勢を考えれば、もうそろそろ鎖国をやめないとヤバいよ!」と忠告してくれていた。
1840年にはアヘン戦争が起こり、アジアの大国だった中国がイギリスにいいようにやられて半植民地へと転落を始めていた。
もう好むと好まざるとに関わらず、自分だけ国を閉ざしてのんびり暮らすということは許されない時代になってしまったのだ。
横浜(現在の神奈川県庁あたり)に応接所が作られて、日本側の代表・林復斎
条約を結び終えたペリーはまもなく横浜を去って、開かれたばかりの下田に入り、和親条約の細則を定める交渉が継続して行われた。 なお、日米和親条約では通商(貿易)を行うことは除外されていた。つまりアメリカの船は指定された港に入っていいし最低限の世話はする。でも貿易はしないよ、ということだ。このため本当の意味での開国ではないという見方もある(「本当の意味での開国」は日米修好通商条約ということになる)。
ペリーは6月1日に下田を退去し、翌1855年にアメリカに帰国した。そして日米和親条約締結から4年後の1858年にニューヨークで死去。ペリー宅には日本から持ち帰った陶器、漆器、掛け軸などが多数飾られていたという。
(ペリーについてさらに詳しくは「ペリー上陸記念碑」をご覧ください)
最恵国待遇とは
日米和親条約では、アメリカに最恵国待遇
例をあげると、日本は日米和親条約締結のあと、これと同様の条約をイギリスとも結んだ。ついでロシアと結んだ日露和親条約では、ロシアに対して下田、箱館に加え、長崎を開くことも約された。これは対米、対英の条約より有利であったから、最恵国待遇条項により米・英に対しても下田、箱館、長崎の3港が開かれることとなった。
アメリカが開国を求めた理由
アメリカがぜひとも日本を開国させようとした背景として、当時アメリカは対中国貿易の拡大をはかり、西海岸から太平洋を経由して中国に行く航路を開拓していたので、補給基地としての日本の重要性が大きくなっていたということがある。 また当時、機械の潤滑油や照明用の燃料として鯨油が使われており、北太平洋での捕鯨が盛んになり、捕鯨船の寄港地も求められていた。
予告されていたペリー来航
「泰平の眠りを覚ます上喜撰
大きな船は風の力で進むというのが当時の常識である。それが風もないのに自在に動ける−−ということは搭載されている大砲はいつでも望む場所に移動でき、射程圏内ならどこへでも砲弾を撃ち込めることを意味する。そしてこちら側にはそれを防ぐ手だてがない。これでは眠れなくなるのは当然かもしれない。
なお、ペリーが来航する1年前にオランダはその情報を得て幕府に伝えていた。だから江戸湾への侵入を防ぐための砲台建設など対策を立てる時間はあったはずだが、調整型の性格の阿部正弘には、危険予測に基づいて膨大な費用のかかる大事業を決断することは難しかったのだろう。アメリカ(ペリー)の決意の固さを読めなかったのかもしれないし、なるようにしかならない、と腹をくくっていたのかもしれない。
結局、最初にペリーが来航した直後に大急ぎで品川台場(現在の「お台場」付近)の建設に着手することになる。また、それまで500石積み以上の大きな船は建造禁止(大船建造の禁)となっていたのを解禁とし、さらに1855年(安政2年)には長崎に海軍伝習所を設立して、西洋式の海軍術を幕臣や諸藩の藩士らに学ばせた。
また、陸軍関係では、1854年(嘉永7年)に築地に講武場(のちの講武所)を設けて、幕臣たちに武芸の再教育を行わせるようにした。
・笠原一男著『日本史研究』山川出版社、1997年