〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代(幕末)

(おうせいふっこのだいごうれい)
王政復古の大号令ってなんのこと?

(京都御所南門(建礼門))

王政復古の大号令とは、明治新政府の設立を宣言したもの。1867年(慶応3年12月9日)に明治天皇により発せられた。

王政復古の大号令により、徳川幕府は消滅し、従来の朝廷の組織は解体された。新たな政府は天皇を頂点とし、総裁・議定・参与の三識によって運営されることとなった。

大政奉還のねらい

徳川慶喜大政奉還(1867年(慶応3年10月14日))によって、幕府が持っていた政権を自発的に朝廷に返しましたが、それは決して「自分は政治をやめよう」と思ってのことではありませんでした。それどころか「幕府はなくなっても徳川家は健在だ。オレはまだまだ日本の政治をとり続けるぞ!」という思いを抱いていたのです。

実際、朝廷は大政奉還の申し出を受理した後も、しばらくの間はそのまま幕府に政治を続けるように頼みました。考えてみればそれも無理のないことで、いきなり政権を返してもらっても長い間政権から離れていた朝廷はどうすることもできません。したがって大政奉還後も実質的に幕府政治は続いていたのです。ここまでは徳川慶喜が思い描いていた通りに事が進んでいたといえます。

(徳川慶喜については「徳川慶喜(気まぐれ人物伝)」も見てくださいね)

あせる倒幕派

またこのころ、もう伝統的な幕藩政治ではやっていけないだろうということは(大名を含め)多くの人の感じるところでしたが、どうしても幕府・徳川家をつぶさないとダメだと考えていた真の倒幕(討幕)派は薩摩・長州などごく一部の藩で、その他の藩では、「新政権は平和的につくり、新たな政府になっても徳川慶喜が主導するか、もしくは慶喜が主要ポストにつくのが混乱も少なくて現実的なのではないか」という雰囲気が広がっていました。

これは薩長などの倒幕派にとってはまずい展開で、放っておけば自分たちの計画が腰折れ、出番がなくなってしまう怖れがあります。徳川慶喜という男は単なる飾り物の殿様ではありません。豊かな知識と教養に加え、卓越した政治力と外交力で政敵を粉砕してきた強者です。 このままでは新政府を作ったとしても、実質的には徳川慶喜の政権となり、徳川家の支配が続くことになってしまうでしょう。倒幕派のあせりはつのりました。

ついにクーデター作戦に出る

そこで、倒幕派は非常手段に出ました。宮廷クーデターです。つまり力ずくで朝廷を占拠して、自分たちの思うような政府を朝廷の中に強引につくってしまったのです。

そんなことが許されるのか、と今問うても仕方ありませんけれど、薩長を中心とする倒幕派は、徳川家を政治の世界から完全に排除し、全く新しい政府をつくらなければ、西欧諸国を相手に渡り合える強い国を作ることはできないと考えていたのですね。そのために、天皇だけを残して、長い歴史を持つ朝廷の組織も解体してしまいました。

ときは慶応3年12月9日(1868年1月3日)、いつもの朝廷の会議が終わって公家たちが御所から出てしまったあと、薩摩藩とその仲間の藩(土佐藩・広島藩・尾張藩・福井藩)の計5藩の兵が御所の門を閉じて幕府と親しい公家たちを締め出し、倒幕派の公家・藩士らが御所を占拠しました(長州藩は朝敵を解除されたばかりで不参加)。そして明治天皇の名で「王政復古の大号令」を発したのです。

王政復古の大号令の意味

王政復古の大号令とは、「日本は天皇を中心とする政治体制に戻ったぞ!」という宣言のことです。復古という語には、もともと日本は天皇が治めていた国だから、という意味が込められ、「いろんな物事を神武創業の昔に戻す」という理念が掲げられました。神武天皇は日本で最初の天皇とされています。要は「これまでの政治をいったんすべてリセットして初心に帰ってやり直そうよ」という心構えを表したものですね。

また、「大号令」というモノモノしい名称には、有無を言わせず天皇の命に従わせる、つまり強力な中央集権制を敷く方針であることが示されています。とにかく強烈なインパクトをもって政治を一新しなければ、激変する世界の中で生き残っていくことはできないという覚悟が表れているといえますね。

新政府の組織

そして「明治新政府」による思い切った政治改革が断行されました。その内容が「王政復古の大号令」の中に書かれています。

その要点は、幕府(および将軍)は正式に廃止、朝廷の摂政・関白も廃止。政権は「総裁」、「議定(ぎじょう)」、「参与」の3つの職(三識)で運営されるということです。

天皇はその政権の頂上に君臨する権威の象徴です。このとき天皇は孝明天皇から皇位を継いだばかりの16歳の明治天皇でした。

実際の政治運営にあたった三職のメンバーは次のような人々でした。

・総裁(有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)

・議定(仁和寺宮嘉彰親王(にんなじのみやよしあきしんのう)らの公家、島津茂久・徳川慶勝・松平春嶽・山内容堂ら)

・参与(岩倉具視、西郷隆盛、大久保利通、後藤象二郎、福岡孝弟(ふくおかたかちか)ら)

新政府最初の会議

そしてその日の夜に、新しい政権のもとでの最初の会議が開かれました。これが「小御所会議(こごしょかいぎ)です。御所の中心である紫宸殿(ししんでん)のそばにある「小御所」という建物で行われました(小御所といっても紫宸殿の半分以上はあるりっぱな建物です)。

会議の主題はやはり徳川慶喜の処遇についてです。岩倉具視や薩摩藩の西郷・大久保らの主張で慶喜の「辞官納地」が決まりました。
辞官 (じかん)とは慶喜に与えられていた「内大臣」という朝廷の官職を辞めさせること。つまり「徳川慶喜は朝廷とはもう関係ないよ(朝廷の仕事につく資格はないよ)」という宣告です。
そして納地(のうち)とは徳川家の領地を全部取り上げるということですから、これは大変な罰ということになります。 とにかく慶喜が二度と復活しないように、権力も富も何もかもむしり取ってしまおうという決意が表れていますね。

反対派の巻き返し

しかし山内容堂や松平春嶽ら藩主経験者にとって、徳川慶喜は直接の主君だった人物です。仮にも将軍としてすべての武士の頂点に立っていた慶喜が大罪人のごとくに扱われることは封建的価値観の中で生きてきた人間にとってはすんなりとは受け入れられません。自分自身の存在意義にも関わってくる問題ですし、地位のある人間にとってはなるべく大混乱を招くようなことは避けたいものです。

ですから彼ら大名級の人々は慶喜を擁護しました(もちろん、慶喜が新政権の中心となったあかつきには、自藩を取り立ててもらおうという期待もありました)。
彼らの主張により、辞官については「前内大臣」という肩書きを新たに許可し、納地についてもすべて没収ではなく半分だけにするというように、どんどん処分が甘くなっていきました。

最後は戦争で決着

薩摩藩の西郷隆盛はこうした状況に危機感をもち、最後にとっておいた秘策を実行します。江戸市中で薩摩藩士らに騒乱を起こさせたのです。強盗・略奪・放火など何でもありの無茶苦茶な「作戦」です。つまり幕府に対する挑発行動ですね。幕府を怒らせ、先に手を出させて戦争に持ち込もうとしたのです。そして西郷の思惑通り、幕府側は江戸の薩摩屋敷を武力攻撃してしまいました。

この知らせが、当時慶喜が拠点としていた大坂に届くと、旧幕臣らはこぞって「薩摩討つべし!」という怒りの叫びをあげ、慶喜はついに薩摩に対して開戦することを決意しました。こうして慶応4年(1868年)1月3日、鳥羽伏見 (とばふしみ) の戦いが始まったのです。

鳥羽伏見の戦いは旧幕府側の敗北に終わりましたが、その後も旧幕府の一部は新政府への反抗を続け、箱館戦争で最終的な決着がつくまで各地で戦いが続きました。鳥羽伏見の戦いに始まった新政府対旧幕府の戦いを戊辰戦争(ぼしんせんそう)と呼びますね。

結局、「大政奉還」や「王政復古の大号令」という政治的な行為だけでは、長い歴史と巨大な組織をもつ江戸幕府を完全に終わらせることはできず、最終的には戦争で決着をつけて初めて明治維新を実現することができたというわけですね。

【参考文献】

・田中彰著『日本の歴史 開国と倒幕』集英社、1992年

・一坂太郎著『明治維新とは何だったのか』創元社、2017年