〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代(幕末)

(あんせいのたいごく)
安政の大獄ってなんのこと?

(画像出典:https://www.ac-illust.com/)

安政の大獄とは、幕府大老・井伊直弼が1858年(安政5年)から翌59年にかけて、自らの政策に反対する大名や武士、公家、学者らを大弾圧した事件。

弾圧のおもな対象となったのは、14代将軍候補として一橋慶喜を推した「一橋派」の人々や尊王攘夷派の志士たちである。8名が死罪となり、ほか100名以上が処罰された。

外様・親藩が動きが活発になる!

長い江戸時代を通して、幕府は日本の統治機関として君臨してきましたが、1853年(嘉永6年)にペリーが来航して以来、それまで幕政には関われなかった外様大名や親藩の大名たちが、幕府のやることにあれこれ口出しするようになってきました。外野席が急にうるさくなってきたのです。 「これは日本国の危機だ。今まではおとなしく幕府に従うのみだったが、これからはワシら(外様・親藩)も遠慮なく政治に参加させてもらうぞ」という意識を持ち始めたのです。ペリー来航時に老中首座だった阿部正弘も柔軟な態度で、幕府外部のいろんな意見を幅広く求めるという姿勢を打ち出していました。

こうして幕府を中心とした従来の日本の政治に新たな流れが生まれてきました。海外事情を知り、時代の変化を読んで実情に合った政治のあり方を考えていこうという改革派です。彼らはこれまでの幕府のあり方にまで踏み込んで、幕府独裁ではなく有力な大名が連合して協力していく体制に変えていかないと「このままじゃほんとに日本はヤバイぞ!」という危機意識を持って行動しはじめたんですね。

一橋慶喜を応援する一橋派

このように行動的な改革派の大名として、薩摩藩の島津斉彬(なりあきら)や越前福井藩の松平慶永(春嶽)(よしなが/しゅんがく)、土佐藩の山内豊信(容堂)(とよしげ/ようどう)、宇和島藩の伊達宗城(むねなり)らがいました。彼らは情報をやり取りして「一橋派」というグループをつくっていました。なぜ一橋派なのかといえば、14代将軍候補として一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)を推していたからです。

どういうことかというと、13代将軍の徳川家定(いえさだ)は病弱のために実子が期待できなかったので、次の14代将軍として養子を迎えないといけないだろうという話になっていたのです。しかしそれを誰にするかが、すでにペリー来航のころから大問題になっていました。 一橋派の人々は、「この危機の時代にこれまでのような飾り物の将軍ではダメだ。聡明で指導力がありリーダーとしての素質をもつ一橋慶喜公(前水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の子)に次の将軍になってもらおう!(そして自分らも幕政に参加させてもらおう!)」という運動を繰り広げていたのです。

徳川慶福を応援する南紀派

こうした一橋派の動きに警戒感を抱いていたのが、幕府の老中を中心とする保守派でした。その保守派の代表ともいえる人物が彦根藩主・井伊直弼 (いいなおすけ)です。 「外様のやつらが、恐れ多くも将軍家のお世継ぎのことにくちばしをはさむとはもってのほかだ!」と直弼は考えていました。 直弼をはじめとする保守派は、次期将軍として紀州藩主の徳川慶福(よしとみ)を推していました。慶福は現将軍に血筋もちかく、ふつうなら順当な跡継ぎ候補といえます。ただしまだ幼少なので(今なら小中学生の年頃)、すぐに政治がとれるわけではありません。

しかし直弼は、伝統的な継承のあり方を重視しました。彦根藩井伊家は譜代大名の筆頭。将軍家が最も頼りにする家臣の家のひとつです。その当主である井伊直弼は、徳川将軍家と将軍家の政権システムである徳川幕府を一命に代えても守らなければならないというつよい義務感をもっていたんですね。また、幼少の将軍なら、老中が政治を主導すればいいだけの話なのでむしろ好都合でもありました。

徳川慶福を将軍候補として推していた人々を「南紀派」(なんきは)といい、井伊直弼のほか、幕府ではたらいていた譜代大名の多くや大奥の人々などがこの派に属していました。

井伊直弼が警戒した徳川斉昭

南紀派のなかには、ただ単に今の地位と生活を守りたいという単純な現状維持指向の人も多くいました。一橋派の描くような改革が行われれば自分たちの立場はどうなるかわからないという不安です。

井伊直弼もまた、一橋派が政権を握ることを恐れていました。ペリー来航によって列強諸国の軍事的脅威を思い知らされたあともなお「尊皇攘夷」を主張しつづけ、日本中の攘夷派の人々から尊崇を集めている徳川斉昭という人物を直弼はとくに警戒していました。

もし一橋慶喜が将軍になれば、当然徳川斉昭は将軍の父として大きな影響力をふるうことでしょう。あるいは実質的に徳川斉昭が幕府を乗っ取ってしまうというようなことにもなりかねません。 それと同時に、他の一橋派のメンバーもこぞって外野席から塀を乗り越えてプレーヤーのフィールドに入って来て、これまでの老中(譜代大名)中心の幕府政治がメチャクチャに変えられてしまうかもしれません。

「それだけは絶対に避けねばならない。外国の脅威が押し寄せているこのようなときに、余計な混乱は国を危うくするばかりだ!」井伊直弼は何としても徳川斉昭が親玉となっている一橋派をつぶしてしまわねばならないと強く思っていました。 この直弼の信念が激しい感情となって、安政の大獄という恐ろしい事態を引き起こしたといってよいでしょう。

(井伊直弼については「井伊直弼ってどんな人?」も見てね)

ハリス、通商条約締結を要求!

その安政の大獄の直接のきっかけとなったのが、アメリカとの「日米修好通商条約」の締結問題です。日本はすでに1854年にアメリカと日米和親条約を結んで開国に踏み切っていましたが、それは「アメリカ船は特定の港には入っていいよ(食糧や燃料くらいは供給してもいいよ)」というほどのいわば「形式的な開国」でした。 その後、領事として日本にやって来たハリスは、米国と通商条約を結んで「真の開国」を実現するよう幕府に求めました。具体的にはアメリカ人が日本に住み、両国の商人同士が自由に貿易するような関係にするということです。

このような通商条約を要求された幕府は(そんなことは到底無理だよ!)と思っていましたが、ハリスは強硬に条約の締結を主張し続けました。おりしも中国大陸では第二次アヘン戦争とも呼ばれるアロー戦争(1856-60年)が起きて、自由貿易を拒んでいた清国が西洋諸国の侵略を受け、まさに植民地のような悲惨な状況になりつつありました。

ハリスから「このままでは次は日本が標的になるぞ!」と脅された幕府は急に不安になり、仕方なく条約交渉のテーブルについたんですね。ハリスはまた「我々アメリカと通商条約をきちんと結んでおけば、他の西洋諸国も無茶なことはできないからさ」などという口説き文句も忘れませんでした。まさにアメムチ的外交です。しかしハリスの言うことももっともな状況ではあったのです。

「違勅調印」が安政の大獄の始まり

幕府側は目付(外国奉行)の岩瀬忠震(いわせただなり)が中心となってハリスと交渉を続けました。岩瀬は幕府が誇る超キレ者の外交官です。そしてまもなく条約文が完成しましたが、これが発効すると日米和親条約と違って、それまでの日本の社会が一変し大混乱が起きることが予想されたので、「ここはひとつ天皇の許可(勅許)をもらっておこう」ということになったんですね。

当時老中のトップ(首座)だった堀田正睦(ほったまさよし)はみずから京都まで出向いて、条約の勅許(ちょっきょ)を願い出ました。ところが朝廷は予想以上に攘夷思想でかたまっていて、勅許をもらうことはできませんでした。条約締結の算段がくるった幕府は大ショックを受け、窮地に追い込まれました。 そこで、幕府の南紀派は事態を打開するために将軍家に工作し、井伊直弼を大老職につけます。井伊家はそれまで何度も大老を出している家ですし、彼なら何とかしてくれるだろうという期待があったのです。

ここから、いよいよ井伊直弼の独壇場が始まります。直弼は大老になるやいなや、日米修好通商条約を朝廷の勅許なしで調印してしまいました。その直弼に対して「朝廷の意向を無視して条約調印する(違勅調印)とは言語道断!」と抗議した徳川斉昭とその子一橋慶喜、越前福井藩の松平慶永(春嶽)、尾張藩の徳川慶恕(よしくみ)(のちの慶勝)らを不時登城(登城日以外に登城すること)の罪をかぶせて謹慎や隠居の罰を与えました。徳川斉昭に対してはのちに永蟄居にします。終身刑ですからめちゃくちゃ重い罰ですね。これが安政の大獄の始まりとなります。

条約締結に続いて井伊直弼は、将軍の跡継ぎ問題もさっさと片付けてしまいます。つまり南紀派の推す幼少の紀州藩主・徳川慶福(よしとみ)を次の将軍に決めてしまったのです。そしてまもなく13代将軍家定は亡くなり、ヨシトミぼっちゃんが名を改め14代将軍・徳川家茂(いえもち)となりました。

戊午の密勅で安政の大獄が本格化

一橋派としては、自分たちの主張を無視して国家の重大事をどんどん独断で決めていく井伊政権に脅威を感じ、「何とかしないと大変なことになる」と危機感を深めました。こうなったら強権をふりかざす大老・井伊直弼に対抗できるのは朝廷の威光しかありません。

薩摩藩の島津斉彬は、鹿児島から兵を率いて京都にのぼり、朝廷と協力して幕府に圧力をかけようと計画しました。ところがその直前になって斉彬は急病にかかって亡くなり、上京計画は中止となりました。そのタイミングからして藩内の反対派が斉彬を毒殺したのではないかという説も有力です。

一方、水戸藩士や攘夷派の志士たちはひそかに工作をし、朝廷から幕府に対して勅諚(天皇からの命令書)を出してもらいます(このことを戊午の密勅(ぼごのみっちょく)といいます)。その内容は「勝手に外国と通商条約を結ぶとはけしからん。幕府は諸藩と協力して幕政を改め攘夷を実行せよ!」というものですが、この勅諚(ちょくじょう)は幕府だけでなく水戸藩にも下され、しかも水戸藩の方に先着し、さらには水戸藩から他の藩へも回覧するように指示されていました。

つまりこの勅諚は「幕府はダメだな。天皇は水戸藩が中心になって攘夷を行うことを期待してるよ。がんばりたまえ!」という水戸藩(徳川斉昭)へのラブコールで、それを幕府に見せつけるものだったんです。 それを知った井伊直弼は「幕府をコケにしやがって!」と超激怒して、幕藩体制を転覆させかねない危険な一橋派は壊滅せねばならないと決意します。そして、戊午の密勅事件に関わった者や、幕府に反抗的な言動を行う者を片っ端から捕らえて処罰しました。こうして安政の大獄の嵐が本格的に吹き荒れることになったのです。

処罰を受けた人々

安政の大獄は1858年(安政5年)に始まり、翌59年の終わりごろまで続きました。その間8名が死罪となり6名が獄中で死亡しました。その他、遠島や追放、落飾(らくしょく)(出家)、隠居、謹慎などの処罰を受けた者は100名以上にのぼります。

越前福井藩・松平春嶽の下で活動していた橋本左内(はしもとさない)は将軍継嗣問題に介入した罪で斬首となり、小浜藩の儒学者・梅田雲浜(うめだうんぴん)は、戊午の密勅に関わった罪で捕らえられ獄中で死亡しました。また同じ罪状で水戸藩の家老・安島帯刀は切腹となりました。遠く長州の松下村塾で教えていた吉田松陰 (よしだしょういん)も老中の暗殺を計画したという反幕的な行動をとがめられて斬首となりました。 大名など身分のある人々はさすがに死罪などにはなりませんでしたが、先にあげたように、徳川斉昭やその子の一橋慶喜、福井藩主・松平春嶽、尾張藩主・徳川慶勝(よしかつ)、土佐藩主・山内容堂らが、隠居・謹慎などの罰を与えられ、公家では左大臣・近衛忠煕(このえただひろ)、鷹司政通(たかつかさまさみち)らが隠居・謹慎・落飾(出家)などの処分を受けました。

また、幕臣でも一橋派だった者は容赦なく罰せられました。岩瀬忠震は日米修好通商条約の交渉で中心的な役割を演じ、幕府外交にはなくてはならない重要な人材であったのに、一橋派であるという理由で軍艦奉行の永井尚志らと共に永蟄居となり、そのまま病死してしまいました(永井はその後復職)。

日本のため? 幕府のため?

このように、井伊直弼は伝統的な幕政を守るために、改革指向の一橋派を徹底的に弾圧し、開国の時代に必要な多くのすぐれた人材を葬り去ってしまいました。直弼は国の未来よりも幕府の延命のことを考えていたという批判もあります。しかし朝廷の勅許を待たずに日米修好通商条約締結を断行した背景には、やはり西洋列強に侵略された清国のようになることだけは防がねばならないという日本人としての使命感があったのでしょう。

私たちはその後の歴史を知っているので簡単に批判ができてしまうのですが、当時の人にとっては、西洋諸国に侵略されるかそれを防げるかというのはこれ以上ない重大問題だったはずです。一橋派の唱える改革的な政治が果たしてうまく行くかどうか何の保証もありません。幕府の最高責任者としてはやはり、現在政権を担っている幕府が中心となって道を切り開くしかないと考えたのでしょう。

その井伊直弼は、安政の大獄によって多くの人の恨みを買い、とりわけ水戸藩の藩士たちは主君・徳川斉昭(前藩主)を永蟄居にされたうえ、朝廷からの勅書を返納するよう幕府から命じられたことへの反発がつよく、結局その中の最も過激な人々によって、井伊直弼は1860年(安政7年3月3日)桜田門外の変で討ち果たされてしまいました。

もうちょっと詳しく…

京の都で暗躍した長野主膳

安政の大獄は、京都周辺が主な「舞台」となりました。それはペリー来航以来、にわかに朝廷の存在感が高まったからです。外国に弱腰の幕府という印象がつよくなると、外様大名や親藩の大名たちは、朝廷の公家に工作をし、朝廷を通して幕府に働きかけ政治に参加しようとしました。そのときに必要となるのが京都での工作員です。当然ながら工作員は優秀な頭脳をもち外交にすぐれている必要があります。

越前福井藩の松平春嶽は橋本左内、薩摩藩の島津斉彬は西郷隆盛、水戸藩の徳川斉昭は安島帯刀(あじまたてわき)や鵜飼吉左衛門(うがいきちざえもん)らを使って、それぞれ親しい公家に接触し、朝廷の上層部や天皇を動かそうとしました。こうした工作員は安政の大獄のときに真っ先に摘発の対象となり、最後は死罪などの重刑を科せられました。

取り締まる側の井伊直弼も「京都工作員」を持っていました。それは長野主膳(ながのしゅぜん)という国学者・歌人です。直弼は彦根藩主となる前に、茶道や和歌などの芸事や国学などの学問に精を出しましたが、そのとき直弼に国学や和歌を指導したのが長野主膳です。 つまり長野は直弼の先生だったのですが、のちに直弼が幕府大老となると、公家とのコネクションを持ち教養豊かな長野は、朝廷工作の適任者として安政の大獄を行う直弼の手先となって働くことになります。そして京都所司代や京都町奉行所を動かして容疑者らの捕縛を進めることになりました。老中の間部詮勝(まなべあきかつ)もまた直弼の支配下にあって京都で活動を繰り広げます。長州藩の吉田松陰が暗殺しようとしたのがこの(井伊の赤鬼に対して)青鬼と呼ばれた老中間部でした。

【参考文献】

・松岡英夫著『安政の大獄』中公文庫、2014年