(しんぱん・ふだいだいみょう・とざまだいみょう)
親藩・譜代大名・外様大名ってなんのこと?

親藩とは、徳川家の一門(親族)が当主である大名家のこと。譜代大名は関ヶ原の戦い(1600年)より以前から徳川家の家臣だった者が当主となった大名のこと。外様大名はそれ以外の大名のことで、関ヶ原の戦い以降はすべての大名が徳川家の支配下に置かれることとなった。
江戸時代の政治体制というのは、将軍を最高権力者とする徳川幕府が、地方の領主であるたくさんの大名家(藩)を統括して治めるという形態だ。これを幕藩体制というね。
大名家といっても、その歴史的な成り立ちによって幕府との関係はさまざま。幕府と親しい家もあればそうでない家もある。これらの大名家は幕府との関係によって親藩
(親藩=親族、譜代=家来、外様=ヨソ者(客人))というように覚えておいてもいいね)
親藩とは、家康の直系の子孫を中心とした、将軍家(=将軍の家族)にごく近い親類の大名家だ。「一門大名」ともいわれる。そのなかでも家康の子が当主となった尾張徳川家、紀伊徳川家、水戸徳川家は御三家といって、とくに重要な家とされた。もし将軍家に跡継ぎができないときは、この御三家の中から将軍を出すこととなっていたのだ。
親藩が将軍家の親族であるのに対して、譜代は将軍の家来の家だね。譜代というのは「代々(つかえてきた)」という意味。
戦国時代を戦い抜いてきた徳川家康には、徳川四天王(酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政)とよばれるスゴ腕の武将たちをはじめ、多くの有能な家臣がついていた。家康は信長や秀吉もうらやむほど忠誠心のつよい家臣団をもっていたのだ。
こうした家臣、家来の多くは、戦国期には旗本として大将である家康のまわりを守り固めていたのだけど、やがて徳川家の支配地が全国へと広がってくると、有力な旗本たちは1万石以上の大名に格上げされて地方の要所を治めるようになった。これが譜代大名ということだね。
(いっぽう、その他大勢の家来たちは幕藩体制下で、あらためて「旗本」「御家人」として将軍につかえることになる。こうした武士は将軍直属の軍隊を構成し、原則として江戸に住み「直参
譜代大名には、前にあげた徳川四天王(酒井、本多、榊原、井伊)の各家、それに大久保、鳥居、土井、奥平、久世、小笠原などやそれらの分家があった。また江戸時代に老中となった人物は大多数が譜代大名といっていい。
譜代大名の多くは、もともと家康の家来だったのを大名にして各地に配置したものだ。いっぽう、そうではなく最初から大名だったもの、つまり戦国時代に徳川家以外の「○○家」(○○氏)と呼ばれていた大名(戦国大名)は基本的にみんな外様大名だ。
教科書では、「関ヶ原の戦い以前から徳川氏に臣従していたのが譜代大名、関ヶ原以後に臣従したのが外様大名」などという説明がされているけど、これはちょっと誤解を招きやすい表現で、『外様大名とは関ヶ原で西軍に味方した大名』と思いこんでしまうおそれがある。 これは間違いだ。
たとえば、いまの姫路城を築いた池田輝政
おなじく秀吉政権の後期から家康に接近し、関ヶ原では家康側について東軍として戦った福島正則
いっぽう、関ヶ原で西軍の総大将にまつりあげられた毛利家(長州藩)や同じく西軍についた歴史の古い島津家(薩摩藩)などはスジ金入りのバリバリの外様大名で、幕府からつねに警戒される存在だった。奥州の覇者・伊達政宗で有名な伊達家(仙台藩)もそうだ。(伊達政宗は関ヶ原の戦いでは東軍につき、幕府ができてからも徳川家の人々とは個人的に親しくしていたが、幕府はこの超重量級の外様大名に対して警戒の手をゆるめることはなかった)
だからひとくちに外様大名といっても、徳川家との親しさの度合い、「親疎」の程度はさまざま。(さきにあげた池田家は外様といいながらも、親藩のような扱いを受けていた)
しかし程度の差はあれど、基本的に外様大名は幕府にとっては潜在的敵国だから、かれらの動きを牽制するために、軍事上の要地や江戸の周辺には、譜代大名や親藩の大名が配置されたんだね。
幕府でいちばんエライ人はもちろん将軍だけど、じっさいに幕政をになうのは老中や若年寄たちだ。こうした幕府の要職につくのはおもに譜代大名である。将軍家に血筋の近い親藩の大名は、常日頃は幕政に参加させてもらえないのだ。なぜかといえば、将軍に近いだけあって遠慮がなく政策遂行の邪魔になるから。(口うるさい親戚のおじさん、おばさんというのはどこにでもいるものだね)
幕政を担当する役目はやはり、家康の若き日より命がけで主君を守り続けてきた信頼のおける譜代大名(およびその家の子孫)がふさわしいというわけだね。
外様大名の場合は、幕政に参加することはまずできない。徳川の世の平和と秩序をみだすようなことをしでかさないか、つねに警戒の対象となっていたのである。
そして幕末になって外国からの圧力が高まってくると、いち早く行動を起こしたのは幕府に忠実な譜代大名ではなく、自由な立場で世界を見ようとした先進的な外様大名や親藩の大名たちだった。日本人としての危機意識をもったかれらは、「もうこれまでのやり方では我が国は滅びますぞ!」と、外国に弱腰で保守的な幕府の背中を押し、幕政に口出しをし、あるいは幕府に立ち向かったりして従来の幕藩体制を変えようとしたんだね。
(このような外様大名の代表が薩摩藩・島津齋彬
外様大名は石高が多い(領地が広い)かわりに江戸から遠くに配置されたと言われる。たとえば秀吉に可愛がられた大名・福島正則は、関ヶ原で大活躍をして東軍の勝利に貢献し、24万石から49万石に大幅加増されたかわりに、尾張国の清洲(いまの愛知県)という要衝の地から、安芸・備後(いまの広島県)という遠方の地に移されている。
このように、領地の加増と引き換えに遠隔地に転封
外様大名に多くの石高を持たせたのは、恩義を与えることで主従関係を強固にして、幕府に反抗しにくくさせたという面もある。つまり外様大名たちは、「領地(石高)を保障してくれるのなら、おとなしく幕府に従っておこうか」と考えたのだ。
これに対して譜代大名はもともと幕府への忠誠心がつよく、しかも幕閣(老中)へと出世する道も開かれている。広い領地の主であるよりも、幕閣として天下を左右するほどの権勢をにぎることや幕府の重職を担っているという名誉のほうが魅力的だったということだろうね。
もちろん政治的権力をにぎった譜代大名が大きな軍事力も持つ(=石高が大きい)と、万一その大名家が謀反を起こした場合大変なことになるから、そうした危険を未然に防ぐためにも譜代大名は石高を抑えられていたと言えるね。
外様大名は永遠に外様大名でいなければならないかと言えば、必ずしもそうではなく、幕府のためによく働いたり信用を勝ち得た外様大名は、譜代大名としての扱いを受けられることもあった。
大名の数の内訳を見てみると、
・親藩(御三家を含む) 12人
・譜代 113人
・外様 100人
計 225人
(1664年(寛文4年)時点)
幕末になると親藩と譜代大名の数が増えて
・親藩(御三家を含む) 23人
・譜代 145人
・外様 98人
計 266人
(1866年(慶応2年)時点)
となる。
・竹内誠監修『一目でわかる江戸時代』小学館、2004年
・笠原一男著『日本史研究』山川出版社、1997年