〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(さこく)
鎖国ってなんのこと?

(画像出典:https://www.ac-illust.com/)

鎖国とは国を閉ざして外国との交際をしないこと。日本は1639年にポルトガルと断交して以来、鎖国とよばれる状態が長く続いた。ただし完全に国を閉ざしていたわけではなく、オランダ・中国とは幕府の管理下で交易が行われていた。また朝鮮、琉球などとも交流があった。

国を閉鎖するのが鎖国

江戸時代は鎖国をしていた、と言われるね。鎖国とは「を閉する」という意味。当時は邪教とされていたキリスト教の流入を防ぐために国を閉じていたのだけれど、実際には外国との交流がまったくなかったのではなく、オランダ・中国などとは小規模ながらも交易があった

たとえて言えば、外からウィルスを持った人が入ってくるのがイヤで玄関は閉めたけど、少しは買い物もしたいし外の様子も知りたい。「ちょっとだけならよかろう!」というので裏口だけは開けてたという状態だね。だから「鎖国」という言葉は正確ではないという人もいる。

でも日本人が海外に出かけることは厳禁されていたし、外国人が日本に来ることもものすごく制限されていた。貿易は幕府の監視下にあって自由にはできなかったから、やっぱりかなりの引きこもり状態だったのは確かだね。

貿易が活発だった江戸初期

では、初代将軍の徳川家康が、幕府を開いてすぐ鎖国をしたかといえば、そうではない。それどころか家康は海外の人々と付き合うのが大好きな人物で、「日本からも積極的に海外に出て、どんどん貿易をするのじゃ!」と大名や商人たちの尻をたたいて商売に駆り立てていたのである。

そして幕府が認めた貿易船には相手国の信用が得られるように証明書を発行した。この証明書のことを朱印状(ハンコを押した渡航許可証のこと)といい、これを携えた貿易船のことを朱印船といった。外国に対して「この船は幕府が公認した貿易船だから安心してどんどん取引できますぞ。逆に朱印状を持っていない船とは取引しないように」というアピールだった。

もちろん大名や商人が朱印船貿易を熱心にやるほど幕府のフトコロもうるおう仕組みになっていた。

貿易の相手国は

貿易の相手は、戦国時代に日本にやってきたスペインやポルトガル、そしてイギリス・オランダ、それに中国、朝鮮といった近隣の国々。 こうして日本と東アジア周辺の海には、外国の貿易船や日本の朱印船がにぎにぎしく行き交っていたんだね。
(外国の貿易船と日本の朱印船とは当然ながら貿易のライバルでもあった)
(西洋諸国との貿易といっても、ヨーロッパの本国と直接取引するのではなく、西洋諸国が東アジアに設けた拠点(東インド会社)との行き来となる。 とくに盛んだったのは、中国産の生糸・絹織物の取引。日本ではこうしたものが大人気だったし、外国のほうでは日本産の金銀をほしがっていた)

キリシタン問題が起きる

さて、このように貿易をするほど大名も儲かり、商人たちも儲かり、幕府も儲かりといういいことずくめのようだけど、ひとつ大きな問題があった。 それは西洋人たちとつき合っていると、貿易品のやり取りとともに、キリスト教が広まる危険があるということだ。

キリスト教は日本人に長く信仰されてきた神道や仏教とちがい、強力な一神教の宗教だ。「この世界を創造した唯一の神とその神の子であるイエスの教えに帰依することで救いがもたらされる、心の平安が得られる」 つまり、この宇宙で最高の存在(神)というものを認め、その存在に自分を全託してしまえばもう怖いモノは何もなくなるのだ。なにしろ最高の存在なんだから!

このようにシンプルでわかりやすい教義は、苦悩に満ちた人生を送っていた多くの人たちの心をつかんだ。また、当時は目新しい西洋の風俗調度品類なども魅力的に映ったかもしれないね。 一方で、幕府の側からすれば、唯一の神を絶対視する信者の姿勢は大変危険なものに映るのは当然である。イザとなれば世俗の権力者の言うことなどきかず、信者が団結して反乱を起こすかもしれない。全智全能の神の前では人間の将軍なんか塵(ちり)にも等しい存在ではないか(実際に1637年には島原の乱が起きて、これが鎖国の直接の原因となった)。

ローマ教皇に後押しされたスペイン、ポルトガル

ヨーロッパの大航海時代にいち早く世界の海に乗り出したスペイン、ポルトガルは、キリスト教のトップであるローマ教皇庁から、「キリスト教を世界中に広めるならば、未開の国にどんどん進出したり征服したってかまわんぞ。無知な人々に真実の教えを授けるのは神の御心にかなう善行じゃからな!」などと後押しされ、宗教的な後ろ盾のもとに、世界各地に進出(というか侵略)していたから、日本に対しても貿易とセットでキリスト教を布教するのは当然の行動だったんだね。

キリスト教は禁止!!

天下統一を果たした豊臣秀吉もその後をついだ徳川家康も、こうした国々の意図には気づいていたけれど、一方で貿易がもたらす利益も大きな魅力だった。戦国時代まっさかりのときには鉄砲は重要な武器だったから、国内では調達できない硝石(発射薬の原料)、(弾丸の原料)を輸入できることは大きな利点だったし、戦国の世が終わっても生糸や絹織物などは根強い需要があったんだね。

家康は、貿易の利益追求のためキリスト教の進出に目をつぶっていたが、拡大するその勢いに「こりゃあ捨ておけんぞ…」と不安を感じ始め、岡本大八というキリシタンの家来が起こした事件をきっかけに、ついに1612年(慶長17年)に幕府の直轄地に対して「キリスト教を信ずることはまかりならぬ」という禁教令を出すことになった(このときの将軍は2代目の秀忠だが、実質的なトップは家康だった)。そして翌1613年には禁教令の範囲を全国に拡げた。

禁教令から鎖国へ

ここで注意すべきことは、家康はあくまでキリスト教を禁止しただけで、貿易の制限や鎖国を考えたりはしなかったということだ。ところが2代目将軍秀忠は「キリスト教を防ぐためには、もう外国との交流そのものをやめていかないとダメだ!」と考えたんだね。
外国との交流をやめる(制限する)理由として、キリスト教の拡大を防ぐこと以外に、貿易によって大名や商人が豊かになり、力をたくわえることを警戒したという面もある。

1616年(元和2年)に家康が死ぬと、将軍秀忠は「おやじ殿のような手ぬるいことはやっておれん。キリスト教を防ぐためには何でもやるぞ!」と決意した。そしてキリシタン(キリスト教信者)には容赦ない弾圧を加え、外国との交流はどんどん縮小することとしたのだ。
(ちなみに家康という人は「タヌキ親爺」のあだ名の通り、ごまかしたり人をたぶらかしたりするのは得意だったが、集団処刑などといった「残酷」なことは嫌いだったようだ。信長や秀吉と違い、できるだけ人を生かして使おうという考え方をしていた)

こうして日本は「鎖国」への道を進んでいったのだった。以下に示すように鎖国は段階的に進んでいき、1639年(寛永16年)にポルトガル船の来航を禁止した時点で「鎖国」が成立したとされる。(1639→「広く裂く」などと覚えるね。ただし最初に言ったように完全に外交を閉ざしたわけじゃないのであまりピンと来ないかも)

【鎖国のプロセス】

(1616年 徳川家康死去)

1616年 欧州船の寄港地を平戸と長崎に限定する。

1623年 イギリスが日本から撤退。

1624年 スペイン船の来航を禁止する(将軍は家光)。

1631年 奉書船制度が始まる。

1633年 奉書船以外の海外渡航を禁止する。

1634年 長崎に出島を築く。

1635年 日本人の海外渡航と帰国を禁止する。

1636年 ポルトガル人らの子孫を追放する。

(1637年 島原の乱 〜38年)

1639年 ポルトガル船の来航を禁止する【鎖国の成立】。

1641年 オランダ人を出島に移す(閉じこめる)。



それぞれについて少し補足すると、

●1616年 欧州船の寄港地を平戸と長崎に限定する。

→それまでは日本のいろんな港に外国船がやってきていた。江戸に近い浦賀(今の横須賀市)にも来ていたんだね。浦賀といえば幕末にペリーが来たところだ。

●1623年 イギリスが日本から撤退。

→イギリスは東南アジアの香辛料貿易をめぐってオランダと争っていた。しかし1623年アンボイナ島(現インドネシア)の商館がオランダに襲われて(アンボイナ事件)この地域から撤退。日本との貿易も儲けの見通しがつかず、結局、東アジア・東南アジアに築いた拠点を捨ててインド経営に集中することになった。オランダといえば風車とかチューリップとか何だか牧歌的なイメージがあるけど、このころのオランダはゲルマン民族の血のゆえか、非常に野心的で好戦的な国家だったようだ。スペインやポルトガルの船をたびたび襲撃して貿易品を奪い取り、彼らから海賊呼ばわりされてもいた。

●1631年 奉書船制度が始まる。

奉書船というのは、朱印状の他に老中が発行した奉書という書類を携えた船のこと。奉書船以外の船は貿易ができないこととした。つまり「奉書+朱印状」で初めて従来の朱印船と同じ資格になるということ。それだけ貿易の条件が厳しくなったわけだ。

●1633年 奉書船以外の海外渡航を禁止する。

→奉書船以外の船は、海外渡航ができないということになった。また5年以上海外に住んだ者は日本に帰国できないとされた(帰国したら死罪!)。その理由は海外でキリスト教に染まっているかもしれないから。

●1635年 日本人の海外渡航と帰国を禁止する。

→日本人の海外渡航が全面的に禁止された(帰国したらもちろん死罪!)。したがって奉書船そのものがなくなったことになる。

●1637年 島原の乱が発生

→九州の島原・天草地方の領民3万7千人が、領主の圧政(重税とキリスト教弾圧)に対して大規模な反乱を起こした。幕府は多大な犠牲を払って何とか鎮圧したが、これに懲りてキリスト教を根絶しようと決意する。

●1639年 ポルトガル船の来航を禁止する【鎖国の成立】

→キリスト教を根絶するには宣教師がまぎれこむ可能性のあるポルトガル船の来航を止める必要がある。その場合に同国から購入している物資が入手できなくなるが、オランダとの交易でそれを代替できる見通しがついたため、ポルトガルとの断交を決断した。

●1641年 オランダ人を出島に移す

→それまで出島に住んでいたポルトガル人をみんな追放してしまったので、その代わりに平戸のオランダ人(オランダ商館)を出島に移した。

日本はこうして「鎖国」状態、つまり外交を極度に制限した国の体制に入ったんだね。オランダ、中国とは直接幕府の管理のもと、長崎で交易を行った。このほか朝鮮とは対馬の宗氏を通して、琉球王国とは薩摩の島津氏を通して交易が行われた。

もうちょっと詳しく(ポルトガルとオランダの違い)

なぜスペインやポルトガルはだめでオランダはいいのかと言えば、スペイン・ポルトガルはカトリックの国で、前に述べたように布教を前提とした貿易を行っていたから。一方、オランダはプロテスタントの国で、布教なしで貿易だけを行うことができたからだね。

1500年代初めころ、真面目なドイツの神学者で大学教授でもあったマルティン・ルターは当時のローマ教会の腐敗ぶりに憤慨し、「教会のやってることはデタラメだ。いちばん大事なのはそれぞれの人の信仰なんだ!(教会なんかくそくらえだ!)」とタンカを切った(1517年)。そしたら教会から破門されてしまったのだ。当時教会から破門されるということは閻魔大王から地獄行きを宣告されるのと同じで、これ以上ない精神的苦痛であり、社会的には廃人扱いされたようなものだった。

しかし勇気あるルターの行動を見て、それまでローマ教会に不満を持っていた多くの人々が立ち上がり声をあげ結束して、アッという間にヨーロッパ中に教会の言うことを聞かないグループつまり「プロテスタント」が拡がった。
これに危機感をもったローマ教会つまりカトリックは、当時海洋国家として活動していたスペインやポルトガルの尻をビシビシ叩き、「プロテスタントのやつらに先を越されないよう、まだキリスト教を知らない未開の地へ出かけていって自分たちの正しい教え(つまり伝統的なカトリック)を広めるのじゃ! はようせい!!」とゲキを飛ばした。そういう流れのなかで、カトリックのイエズス会に属していたフランシスコ・ザビエルが日本に来て、キリスト教の布教を始めたのだね(1549年)。もちろん貿易による利益という甘いアメも一緒に勧めて。

もうちょっと詳しく(鎖国中の貿易相手)

鎖国中の貿易相手は、オランダ、清(中国)、朝鮮、琉球、蝦夷の5地域があった。対オランダ貿易はオランダ東インド会社が相手、対清貿易は清の民間船によるもの。オランダ、清はどちらも長崎が貿易窓口で、幕府(長崎奉行)が直接管理を行った。

朝鮮に対しては対馬の宗氏が貿易窓口となった。豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)以来、朝鮮とは対立関係にあったが、徳川家康が宥和につとめ、己酉約条(きゆうやくじょう)を結んだことで、鎖国期間中、唯一日本との正式な国交をもった国となった。交易は釜山 (ぷさん)倭館 (わかん)で行われ、また朝鮮からは使節(朝鮮通信使)が江戸までやってきたね。
(ちなみに朝鮮は、明治新政府には国交を閉ざした。そのため西郷隆盛らによる征韓論が起こった)

琉球に対しては薩摩の島津氏が窓口となった。琉球はもともと東アジアの中継貿易で栄えていて中国(明)にも朝貢(対等な貿易ではなく皇帝に対して貢ぎ物をし、皇帝からは恩賜を受けるという形での物品のやり取り)していた。1609年に薩摩藩が侵攻し琉球を支配下に収めたが、中国(明・清)=琉球という貿易ルートをキープするために形式的には独立国のままにしておいて朝貢貿易を続けさせたんだね。だから琉球は日本と中国の両方に従属しているという複雑な立場に置かれることになった。琉球からも琉球国王や幕府の将軍の代替わりごとに使節(謝恩使・慶賀使)が遣わされたね。

蝦夷 (えぞ) は国ではないけれど、当時は日本の支配機構に組み込まれていなかったから「貿易相手」のひとつだった。蝦夷に対しては松前藩の松前氏が窓口となった。松前藩では米が取れないから、家臣に禄としてアイヌ(蝦夷の住人)と交易するための場(これを商場 (あきないば)または場所 (ばしょ) と言った)を与えた。つまり松前藩の財政は「アイヌとの貿易」で成り立っていたわけだ。

【各地とのおもな交易品】

・オランダから日本へ

ベンガル生糸・綿織物・砂糖・薬種

・日本からオランダへ

銀・銅・漆器・樟脳


・中国から日本へ

生糸・絹織物・書籍・綿織物・薬種

・日本から中国へ

銅・銀・俵物


・朝鮮から日本へ

中国生糸・木綿・人参

・日本から朝鮮へ

銀・銅


・琉球から日本へ

砂糖・ウコン・芭蕉布・唐物

・日本から琉球へ

銀・茶・タバコ・俵物


・蝦夷から日本へ

海産物(ニシン・サケ・コンブ・フカヒレなど)・毛皮

・日本から蝦夷へ

米・酒・衣料

もうちょっと詳しく(オランダからの情報)

オランダ船は長崎に来るたびに、海外の情報を記した「オランダ風説書 (ふうせつがき)を提出したので、幕府は鎖国しながらもだいたいの海外事情を知ることができた。

また、長崎のオランダ商館長カピタンと呼ばれた)は毎年江戸に行き、将軍に拝謁した。カピタンの一行は江戸に着くと大変な人気で、将軍に拝謁したあとは老中や幕府役人らに挨拶、また宿泊所には大名や蘭学者、文化人らが話を聞くために押し寄せたという。

幕末の1853年(嘉永6年)にペリーが来航し、その軍事的圧力のもと日本は翌54年に日米和親条約を結んでついに鎖国状態が破られたが、ペリーが来る9年も前の1844年にオランダ国王から、「そろそろ日本は鎖国を解いたほうがいいよ」という内容の親書を受け取っている。さらにペリー来航の前年にも、「米艦隊が日本に行くよ」との予告をオランダから受けている。しかしそうした情報は有効に活かされず、さしたる準備もないままに「黒船来航」という大事件を迎えてしまった。

オランダからの情報に対して、早期に真剣に検討し対策を講じていれば、幕末の混乱はもっと少なくて済んだと思われるが、長い鎖国によって外交や防衛に対する危機意識も衰えてしまっていたといえるだろう。

【参考文献】

・藤井譲治『日本の歴史 江戸開幕』集英社、1992年

・藤井譲治他『日本の歴史 近世・近現代編』ミネルヴァ書房、2011年