(かんせいのかいかく)
寛政の改革ってなんのこと?

寛政の改革:天明7年(1787年)〜寛政5年(1793年)
寛政の改革は、老中・松平定信が主導した幕政改革で、江戸の三大改革(享保の改革、寛政の改革、天保の改革)のひとつ。天明の大飢饉のあとに行われた。緊縮財政や学問・風俗の取り締まり・飢饉に備える備荒政策などが中心。
寛政の改革が行われたおもな原因は2つ。商人と深く結びついた田沼政治の腐敗と天明の大飢饉による世の中の混乱をなんとかおさめるということだ。
徳川吉宗の孫としてうまれた老中・松平定信は30歳のとき、「ぼくもおじいちゃんがやった享保の改革を見習って世直しをしよう!」と決意した。そして寛政の改革という、政治、経済、文化とさまざまな分野での改革を大胆にやったのだ。でもおじいさんに比べると真面目一方な性格がわざわいして、田沼時代のたるみきった政治を正そうとしたのはいいけれど、ぎゅうぎゅうに引き締めすぎた。
松平定信は朱子学好き。朱子学では農業を重視し商業を軽蔑する傾向がある。天の理にしたがって汗水流して働くことこそが真に価値のある人生なのだ。「皆のものよ、金儲けなどにうつつを抜かさず、分をわきまえて真面目にはたらくのじゃ。ムダ使いはダメ。倹約、倹約!」と、大声を張りあげて改革を推し進めたのである。
そのため、ぜいたく大好きな将軍・家斉
そんな松平定信が行った寛政の改革とはなにか。かんたんにまとめよう。
備荒貯蓄(飢饉へのそなえ)
・囲米
・七分積金
流民(治安)対策
・人足寄場
・旧里帰農令
武士の救済
・棄捐令
文化・風俗の取り締まり
・寛政異学の禁…儒学のなかで朱子学だけを奨励し、湯島聖堂の学問所では朱子学以外の学問を禁止した。
・幕政への関与を禁止…『海国兵談
その他倹約の徹底
・大奥の経費を3分の1に切り詰めたところ、反発を受けて松平定信の失脚の原因となった。