(ぶんちせいじ)
文治政治ってなんのこと?

文治政治とは、学問や教養(とくに儒教)によって人心を感化させることで統治しようという政治手法のこと。
文治政治とは、世の中を治めるために、学問や教養(とくに儒教)によって人心を感化させる手段をとること。要は「幕府という主人に対して家来たる者が礼をつくし忠実に仕えることは人として素晴らしい生き方であるぞ」と思わせるような教育、ある種のマインドコントロールを施すということでもあるんだね。
徳川幕府初期は、文治政治の反対である「武断政治」を行って大名を次々に取りつぶしていった結果、ちまたに浪人があふれ、社会不安をあおる事件(慶安の変
文治政治は支配者側からみれば、儒教でいう徳治主義にも通じるものだ。つまり恐怖による支配ではなくて人心をつかむことで統治しようという作戦。庶民の生活や大名家の立場を考慮したり、また何でもかんでも力ずくで言うことを聞かせるのではなく、理でさとす政治をめざすということでもある。この考えにもとづいて法律や制度の整備をはかっていったのだ。
幕府がこんなふうに考えたということは、徳川幕府が開かれて50年たち、統治の経験をつんで幕藩体制もほぼ確立し、世の中もおおむね安定して余裕が生まれていたということがいえる。
将軍の治世でいうと、初代の家康から3代・家光までが武断政治、4代・家綱から7代・家継までが文治政治の時代に分類される。6代から7代までは新井白石
(江戸幕府では儒学の中でもとくに朱子学を奨励した。新井白石も朱子学の専門家だった)
でもその次の8代将軍・徳川吉宗は、鷹狩りが大好きな体育会系人間で、将軍になるとすぐに新井白石をクビにしてしまった。吉宗は、「みんな頭でっかちになったり、軟弱になったりしてるんじゃないかよ!?」と考え、武家の本分である武芸を積極的に奨励し、家康の政治を手本にして、行きすぎた文治政治を改める政治をしたんだよ。