普門寺
(ふもんじ)
大村益次郎(改名前は村田蔵六)は、文政7年(1824年)5月に周防国鋳銭司村の医者の家に生まれ、23歳のときに大坂に出て、緒方洪庵の適塾で学んだ。塾頭までのぼり、蘭学・兵学のエキスパートとなった益次郎は、いったん故郷で村医の仕事につき、その後、宇和島藩に出仕して砲台建設や軍艦建造の事業に携わった。この時期、益次郎は長崎でシーボルトの娘・イネと出会っている。
安政3年(1856年)に江戸に出た益次郎は、幕府の蕃書調所、講武所で兵学・蘭学の教授となり、蘭書の翻訳などにも携わり幕府から非常に高い評価を受けた。ときに江戸に出府していた長州藩の桂小五郎は、自藩の出身者が英才をふるって江戸で活躍していることに驚き、藩に迎え入れるよう働きかけて、万延元年(1860年)に益次郎は長州藩士となった。
文久3年、攘夷戦にそなえて長州藩の藩府が萩から山口に移されると益次郎は帰藩し、山口明倫館で西洋兵学・医学の教授となった。そのころの宿舎がここ普門寺である。益次郎はここでも請われて兵学の講義を行った。当時は普門寺塾、三兵塾(歩兵、騎兵、砲兵の三兵科を教えていたため)などと呼ばれていた。
(大村益次郎については、大村益次郎像(江戸の史跡)をご覧ください)
(写真中央に見える瓦屋根が普門寺本堂。手前の道路は国道9号線バイパス。背後の山は鴻の峰で、戦国大名・大内氏最後の当主である大内義長が毛利氏侵攻にそなえて築いた高嶺城
(普門寺の山門)
(山門の右手にある説明板)
(普門寺本堂。普門寺は大内正恒が創建したとされる。大内正恒は大内氏の祖とされる琳聖太子
(本堂から観音堂(正面)と鐘楼(右)が見える)
(大村益次郎が起居していた観音堂。ここで兵学の講義が行われた)
(鐘楼から山口市街地を望む。サビエル記念聖堂が鐘の真下の位置に見える)
