山口・湯田温泉の史跡
広沢真臣墓
(ひろさわさねおみはか)
広沢真臣墓
広沢真臣
第二次長州征伐(幕長戦争)では井上馨とともに、安芸・宮島で幕府との停戦交渉に臨んでいる(幕府側代表は勝海舟)。また、桂小五郎(木戸孝允)と連携し、大久保利通や坂本龍馬ら他藩の要人との会談を重ね、討幕の密勅を引き出すことにも貢献した。戊辰戦争では旧幕側との利害の調整にも尽力した。
広沢は木戸、大久保といったヒーローの蔭で実直な働きを続け、明治政府では民部大輔や参議を務めた。木戸・大久保と並んで1800石の永世禄を賜り、幕末の「維新の十傑」にも数えられている。
明治4年(1871年)1月9日に東京の自邸において何者かに刺殺された。実直で人付き合いのよい広沢がどのような経緯で暗殺されたのか、犯人も動機も今に至るまで不明である。遺骸は青松寺(港区愛宕)、のち若林(世田谷)に改葬され、山口の当地に分霊墓が建てられた。
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PHOTO
(住宅街のはずれにある赤妻神社(突き当たりの森))
(赤妻神社の境内に広沢真臣の墓がある。正面に見えるのは同じ場所に埋葬されている錦小路頼徳の碑。広沢の墓塔はその右手にある)
(広沢真臣の説明板)
(右側が広沢真臣の墓。遺髪が納められているということである。左は奥方の墓塔と思われる)
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