OLD STRUCTURE
鞆城跡(鞆の浦歴史民俗資料館)
(ともじょうあと)
鞆城跡(鞆の浦歴史民俗資料館)
海上交通の要地だった鞆の浦は、南北朝のころから「大可島城」が軍事的な要塞の役目を果たしていた。戦国時代になり毛利家が進出してくると、現在の鞆の浦歴史民俗資料館のある高台に鞆要害が築かれた。毛利輝元はここに本営を置いて、中国地方をねらう織田信長と対峙するようになる。天正元年(1573年)、信長によって京都を追放された室町幕府将軍・足利義昭は毛利家をたよって鞆に落ちてきた。(このため「鞆幕府」とも呼ばれる)
時代は秀吉の治世から関ヶ原の戦いを経て徳川家康の天下となった。毛利家は中国地方の領地の大半を奪われて防長2州(現在の山口県)に押し込められ、代わって関ヶ原で東軍についた福島正則が鞆の主となった。福島正則は鞆要害を中心とした大規模な「鞆城」の築城をはじめた。ところが、このことが家康の警戒心を買い、10年余りで廃城となってしまった。
のち、正則は広島城の修築をめぐって幕府から「いいがかり」をつけられ、安芸備後の所領を取り上げられ、信濃国へ追放されることになる。
PHOTO
(鞆城跡に残る石垣)
(刻印つきの石についての説明)
(鞆城跡からの眺め。左に福禅寺(対潮楼)、中央に圓福寺が見える)
(眼下の鞆港)
(福山市鞆の浦歴史民俗資料館)
(資料館館内)
(資料館の脇に立っている鞆城跡の説明板)
史跡マップ
