春帆楼(日清講和記念館)
(しゅんぱんろう)
春帆楼は、日清戦争の講和条約が結ばれた割烹旅館。現在も同じ場所で営業が続けられており、敷地内に日清講和記念館が建てられている。また日本側全権の伊藤博文と陸奥宗光の胸像もある。
西洋諸国の植民地になることなく幕末の大混乱をなんとか乗り越え、明治維新を迎えた日本だったが、その後も東アジアの蚕食を続ける列強の動きには神経をとがらせずにはいられなかった。とくに注意を向けていたのが朝鮮である。仮に朝鮮がロシアなどの大国の傘下に入れば、日本の安全は著しく脅かされることになる。
朝鮮は歴史的に清(中国)とのつながりが強く、清は朝鮮の宗主国のような立場だった。しかし清も列強の進出によって弱体化していたから、日本はなんとしても列強に朝鮮を奪われる前に日本の主導のもとで朝鮮を独立させたかった。ただし「独立」とは言っても、事実上は日本の影響下に置くことがねらいである。征韓論などもそうした背景から生まれている。
このように朝鮮の支配権をめぐって日本と清との対立が深まっていき、明治27年(1894年)7月、ついに豊島沖
そして日清戦争の講和条約(下関条約)が締結されたのが、下関の割烹旅館・春帆楼である。日本の全権は内閣総理大臣・伊藤博文と外務大臣・陸奥宗光。清国側の全権は李鴻章
昭和になって春帆楼の敷地内に建てられた「日清講和記念館」には、当時講和条約会議で使用された部屋が再現・保存され、テーブル、椅子など当時を偲ばせる調度品や資料などが展示されている。
(国道9号線沿い、赤間神宮に隣接した春帆楼)
(門を入って右手が日清講和記念館)
(表玄関)
(「ふくの碑」。地元下関ではフグのことを福にかけて「ふく」と呼ぶ。猛毒をもつフグは、江戸期以前から食べてはならない「ご禁制」の魚だった。明治21年(1888年)に伊藤博文が春帆楼に宿泊したとき、伊藤の好きなイワシが天候不良でとれなかったため、おかみは ”お手討ち覚悟で” フグ料理を出した。それを知らずに食べた伊藤は、あまりの美味さに驚き、以後、フグの禁制を解いたという。碑はその逸話を記念して建てられたもの)
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