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巌流島

下関市大字彦島字船島

巌流島(正式名は船島)は、宮本武蔵と佐々木小次郎の決闘が行われた場所。現在は無人島で、下関・唐戸と門司港からそれぞれ観光船が往復している。

2003年に放映されたNHKの大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」に合わせ、武蔵と小次郎の像がつくられるなど、観光施設として整備された。

巌流島

宮本武蔵
天正12年(1584年)美作国(または播磨国)生まれ。二天一流(にてんいちりゅう)(二刀流)の創始者で、兵法家であるとともに書画にも非凡な才を表し、多くの名作を残した。幼少より武者修行に打ち込み、13歳で新当流・有馬喜兵衛との決闘に勝利して以降、六十以上の勝負で負けたことがなかったといわれ、その人生の大半は戦いに明け暮れている。
17歳のときに関ヶ原の合戦に参加(黒田如水の配下といわれる)。江戸期にはいり21歳のとき京都で兵法家の吉岡一門を滅ぼす。そして慶長17年(1612年)4月13日、29歳のとき巌流島(舟島)の決闘で佐々木小次郎を倒した。
武蔵は、決闘の場に赴くとき約束の刻限にわざと遅れて行くという手を過去にも使っており、このときも小次郎をさんざん待たせて平常心を失わせ、自分に有利な状況をつくったとされる。

佐々木小次郎(巌流)
生年、生国は不詳。越前国で生まれたとも。武芸の研鑽のため諸国をめぐった後、小倉藩の剣術師範となった。剣の切っ先をすばやく反転させて相手を斬るつばめ返しという技を編みだし、その流派は「巌流」と呼ばれた。
武蔵との決闘に至った理由は、たがいの弟子たちの武芸論争がきっかけとも言われているが、定かではない。決闘では武蔵に舟の櫂の木刀で一撃され、その場で死亡したとされるが、これも諸説あり、負傷のみで勝負がついたともいわれている。

その後の武蔵
慶長19年(1614年)から翌年にかけての大坂冬の陣、夏の陣に参戦したほか、養子・宮本伊織(みやもといおり)の仕官先の縁で、島原の乱にも出動した。57歳のときに細川忠利(ほそかわただとし)に招かれて熊本に移住、客分として厚遇された。
60歳を迎えたときに、岩戸の霊巌洞(れいがんどう)で執筆を始めた兵法書「五輪書(ごりんのしょ)」を書き終えたあと、62歳で死去した。

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巌流島

PHOTO

(武蔵と小次郎のモニュメント)

 

(武蔵と小次郎の決闘の物語が書かれた「巻物」)

(下関から門司まで関門海峡を一望できる巌流島。関門橋の端から端までを真横から見られる場所でもある)

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