長崎の史跡
長崎奉行所(西役所)跡
(ながさきぶぎょうしょ・にしやくしょあと)
長崎奉行所(西役所)跡
本博多町にあった長崎奉行所は、焼失のため、寛永10年(1633年)にこの地へ移転。西役所・東役所という2つの機関で構成される。その後、東役所は立山
幕府は幕末に開国するとすぐに、この西役所内に「長崎海軍伝習所」を設け(安政2年(1855 年))、オランダ人の教官を招いて、選抜した幕臣や各藩の藩士たちに、近代的な航海術や造船学、医学、数学などを学ばせた。勝海舟はこの伝習所の第1期生である。もともと海軍伝習所を設立することを幕府の阿部正弘に働きかけたのが勝海舟。勝は日本を異国の侵略から守るためには海軍力が不可欠であるとし、まずは海軍士官や技術者の養成が急務であると訴えた。勝はオランダ人教官に対しては生徒だったが、蘭学に熟達していたため、日本人の生徒には教師としての役割を演じた。
江戸期を通じて、西洋諸国で唯一貿易を認められたオランダは、巨額の利益を上げることができた。そこで、この海軍伝習所開設に伴って、蒸気船のスームビング号(400トン)を日本に寄贈した。日本側は同船を「観光丸」と名付け練習船とした。
オランダ人教師・カッテンディーケの回想録『長崎海軍伝習所の日々』で、当時の伝習所の様子を知ることができる。
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(市役所通り(北側)から見た長崎県庁舎(時計のついた建物)。ここに長崎奉行所があった)
(県庁正門の横にある説明板)
(県庁正門の横にある説明板。西役所内に設けられた海軍伝習所の1期生に勝海舟、2期生に榎本武揚がいた)
(県庁正門近くの石碑)
史跡マップ
