京都の史跡
佐久間象山寓居跡
(さくましょうざんぐうきょあと)
佐久間象山寓居跡
佐久間象山は、信濃松代藩士。幕末の国難にさいして儒学者から西洋兵学者に転じ、旧来の常識や伝統にとらわれることのない実証的な態度をもって学究につとめた。我が国の国防を論じた意見書「海防八策」は、ペリー来航の10年も前に幕府に提出されたが、幕府側に危機感がなかったため取り上げられることはなかった。
佐久間象山は、吉田松陰の師でもある。ペリーが二度目に来航したとき、松陰は密航を企てて失敗したが、この密航計画には象山が関わっていたという。このため象山も連座処分で伝馬町送りとなり、その後9年間も松代での蟄居を余儀なくされた。
徳川慶喜の意向によって蟄居がとけ、象山はふたたび国防のための活動を行うため、京都へのぼった。しかし「傲慢な西洋かぶれ」と攘夷派から断じられていた象山にとって、京都はあまりに危険な場所だった。そして元治元年7月11日(1864年8月12日)、三条木屋町にて肥後の攘夷志士・川上彦斎
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PHOTO
(寓居跡の標柱は、店舗の壁、看板、鉄柱に囲まれて見つけにくい)
(ほとんどくっつくように鉄柱が立てられ、裏側に刻まれている文字を読むことは難しい)
(場所の目印は、隣にあるエンパイアビル)
(木屋町通りを少し上ると、御池通りに出る)
史跡マップ
