京都の史跡
西本願寺(新選組屯所跡)
(にしほんがんじ)
壬生・八木家を屯所としていた新選組は、元治元年(1864年)の池田屋事件で一躍脚光を浴び、幕府からの支援も厚くなった。新規隊士の募集で200人を超える大所帯となったため、慶応元年(1865年)3月に屯所を西本願寺に移転した。
西本願寺(新選組屯所跡)
池田屋事件に続いて禁門の変が起こり、幕府にとって長州が討伐対象になると、増員で手狭となった新選組の屯所を親長州派の西本願寺に移転させた。これは、西本願寺と長州系志士たちのつながりを絶つことを狙いとしたものといわれる。
西本願寺は、浄土真宗本願寺派の本山。戦国時代、本願寺は織田信長と長期抗争状態(石山合戦)にあったが、その間毛利家は本願寺に兵糧を運び込んで助けていた。そうした縁があり、幕末期にあっても本願寺は長州藩・長州系志士を支援していた。
大所帯となった新選組は西本願寺の北集会所と太鼓楼を屯所とし、僧侶や信徒たちの迷惑も顧みず武芸の稽古や砲撃訓練などを繰り返した。仏教で忌まれている肉食も境内で大っぴらに行われたという。傍若無人なふるまいを続ける新選組は、寺側にとってはまったく招かれざる客だっただろう。ついに本願寺は、新選組のために新たな屯所を建設する費用をもつという条件で退去を要請した。こうして新選組は慶応3年(1867年)6月に西本願寺からほど近い不動堂村に建てられた新たな屯所(不動堂村屯所)に移転していった。
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PHOTO
(新選組が屯所とした西本願寺・太鼓楼。本願寺内のもうひとつの屯所・北集会所は、姫路の亀山本徳寺に移築された)
(太鼓楼の説明板)
(太鼓楼は西本願寺の東北角にある)
(西本願寺・阿弥陀堂)
(阿弥陀堂門)
史跡マップ
