銀閣寺
(ぎんかくじ)

銀閣寺は、室町幕府第8代将軍・足利義政によって建立され、義政の死後、臨済宗の寺院(慈照寺)となった。銀閣寺は慈照寺の通称。その中の代表的な建物である観音殿(銀閣)は、「わび・さび」に美を求める東山文化を代表する楼閣建築とされる。
焼失後に再建された金閣と異なり、銀閣は、基本的に建設当時の姿をそのままとどめており、国宝に指定されている。また、銀閣寺は金閣寺とともに「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
足利義政は、祖父である足利義満(第3代将軍)が営んだ北山の山荘および金閣(舎利殿)にならって、東山殿
観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸期にはいってからとされるが、じっさいに金箔があしらわれた金閣と違い、銀閣の建設に銀が使われたわけではない。では、なぜ銀閣と名づけられたのか? 「いぶし銀」と言われるように、金閣の金のイメージとは対照的な銀閣の渋い落ち着いた佇まいを表したものとも言われるが、いくつかの説がある。のち、鹿苑寺が金閣寺と通称されるのと同様に慈照寺は銀閣寺と呼ばれるようになった。

足利義政は6代将軍・足利義教
しかし1400年代中頃という時代は、すでに戦国時代の前哨戦ともいうべき争乱が日本各地で勃発し始めていたのである。当時の時代の流れを俯瞰すると、当時の社会に混乱をもたらした要因として3つの事柄があげられる。
ひとつは守護大名たちの勢力が大きくなり、彼らを十分にコントロールする力が幕府にはなかったこと。南北朝の争いをおさめるために守護の権限を強化せざるを得ず、半済法(荘園の年貢の半分を守護が徴収できる制度)などの施策が守護を強大化させてしまったのだ。
二つめは産業が発展して民衆が経済力をつけ自立心がつよくなったこと。一方農村では、農民たちが個々の荘園領主や荘官などに隷属する形態をとっていたのが、このころから地域ごとにまとまった「村」を形成し、しばしば「一揆」とよばれる政治的・軍事的集団を形成して領主や支配者層に対抗するようになっていった。
三つめは鎌倉時代の期間に、武士の家督の相続方法が分割相続から単独相続へと変わっていったこと。分割相続だと代を重ねるごとに領地が細分化され、一族の弱体化につながってしまう。これを防ぐために嫡子または「一族で最もすぐれた人物」がすべての所領を相続するという単独相続が増え、その結果、各地で家督争いが激化する事態となった。義政の将軍在任中に起きた応仁の乱もこうした背景が原因となっている。
足利義政は政治・軍事の才がない代わりに文化人の素質を濃くもっていた人物である。関東で反乱を起こした鎌倉公方の足利成氏
当世一流の文化人・芸術家を集めての風流は値段も高くつく。東山殿の造営費用は段銭や夫役などの税を課すことで捻出し、民衆の反感を買うことになる。 結局義政は「政治的にはダメ将軍だったが、『日本の心』の形成に貢献した文化人」としての評価を受けることになった。茶道、生け花、能といった現代の日本の伝統文化と呼ばれているものは多く室町時代にその源流を発している。いわゆる「わび、さび、幽玄」という日本独特の美的感覚もこの時代に醸造されたといっていい。善阿弥(作庭)、狩野正信、土佐光信(絵画)、音阿弥(能楽)などは、義政のバックアップがあってこそその力を遺憾なく発揮できたのである。
現在、銀閣寺の象徴として広く知られている観音殿は、東山文化の象徴でもある。そしてその文化の名とともに記憶された足利義政は、長享3年(1489)3月の上棟までは見届けたが、翌年1月の銀閣完成を見ることなく世を去ったのであった。
