後藤象二郎誕生地
(ごとうしょうじろう・たんじょうち)
後藤象二郎は、義理の叔父である土佐藩の参政・吉田東洋の教育を受け、普請奉行など要職を歴任。そのまま土佐藩中枢へのエリートコースを進もうとしていたときに、土佐勤王党の手により頼みの東洋が暗殺されてしまった。以後勤王党ひきいる武市半平太が実権をにぎっていた1年あまりの間、不遇のときを過ごしたが、八月十八日の政変をきっかけに武市一派は粛正され、後藤は大監察という藩中枢の地位についた。そして、武市半平太と土佐勤王党の弾圧に主導的な役割をはたす。
主君・山内容堂と同じく公武合体派の後藤だったが、藩の軍事力増強のため、長崎、上海など各地に出張するうちに、幕府の終焉を予感。「徳川以後」の時代における土佐藩の方向性を模索するようになり、長崎でかつての武市の同志であった海援隊隊長・坂本龍馬とも会談した。
そして龍馬とともに上洛の途上の船中で、龍馬から大政奉還と、新しい政府のあり方に関するアイデア(船中八策)を提供された。後藤はこれを山内容堂に献策。容堂から徳川慶喜に建白書が出され、慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還が実現したのである。
後藤は、大政奉還論を自分の案として提出したため、龍馬の功績を横取りしたとの批判もある。が、身分的には郷士の出にすぎない龍馬の名を出さずにいたことが、薩長による徳川家武力討伐の機先を制して、大政奉還実現への道をスムーズにしたともいえる。
明治以後の後藤は、参議など新政府の要職につきながら、征韓論にやぶれて下野、その後実業家に転身しようとして失敗したり、朋友・板垣退助の民権運動に参加しながら、不正な資金調達問題を引き起こしたり、再度政府の誘いに応じて任官したりと、一貫性のない行動を批判されることになる。
(聖泉幼稚園(土佐教会)前に建つ後藤象二郎誕生の地碑)
