幕末トラベラーズ

高知の史跡

板垣退助誕生地
(いたがきたいすけたんじょうち)

高知市本町2丁目

土佐藩上士の家に生まれ、軍制を整備し土佐藩を戊辰戦争に参加させ、のち自由民権運動に身を投じた板垣退助の誕生地。

板垣退助誕生地

板垣退助は、土佐藩の上士である乾(いぬい)家に生まれ、吉田東洋に学んで藩主・山内容堂の側付き用人となった。後藤象二郎とは幼なじみで、子供の頃は二人とも町の悪童で通っていたらしい。

その後、退助は尊皇攘夷運動に目覚め、倒幕を志すようになった。山内容堂の公武合体路線とは異なる道であったが、容堂は下士出身の武市半平太らに対する厳しい仕置きとは打って変わって、退助には終始寛容な態度を示していた。

退助は江戸で軍事を学び、土佐藩の軍制を改革。一方、坂本龍馬→後藤象二郎→山内容堂→徳川慶喜とわたった大政奉還の案が、慶応3年(1867年)10月14日に実現したあと、薩長の密謀によって王政復古の大号令が発せられ、薩長新政府・旧幕府軍との間に戊辰戦争が始まった。山内容堂は当初土佐藩士に戦いに加わることを禁ずる命を出したが、退助は軍を率いて新政府軍に参加。自らは東山道先鋒総督府参謀として戊辰戦争に加わり、甲府では新選組(甲陽鎮撫隊)を破り、また白河、会津などでも戦闘を指揮した。

明治政府が発足し、退助は要職を歴任したが征韓論論争に敗れ、下野して自由民権運動を起こした。岐阜での遊説中に暴漢(相原尚ぶみ(あいはらなおぶみ))に襲われたとき、流血しながら「吾死するとも自由は死せん」と発した有名な言葉が後世にまで伝えられている。

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(高野寺の門の横に建つ板垣退助誕生地の碑)

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