高知の史跡
武市瑞山殉節の地
(たけちずいざん・じゅんせつのち)
武市瑞山殉節の地
武市半平太(瑞山)は、土佐の郷士(下級武士)らで構成された土佐勤王党を率いて、土佐藩の藩論を尊皇攘夷で統一しようとはかったが、文久3年(1863年)に長州藩が京都政界で失脚し、攘夷派の勢いがなくなると、前土佐藩主の山内容堂は、土佐勤王党の粛正に乗り出した。
半平太は、文久3年9月にこの地にあった南会所の牢に入れられたが、牢役人にも半平太の人物を慕う者がいたため、外部との文のやり取りや差し入れの便宜が計られた。書画の心得もあった半平太は、獄中で自画像すら描くことができた。この自画像は現存している。
半平太は、文久2年(1862年)の4月、開国派だった土佐藩の藩政・吉田東洋を、勤王党同志に命じて暗殺させたとされる。この暗殺の一件については半平太自身は否認を続けたが、捕縛された岡田以蔵が拷問を受けて半平太が事件に関わっていたことを自白してしまった。
しかし、半平太はそれでも東洋を殺したことを認めなかった。結局、「主君への不敬」という罪状をもって容堂は半平太を断罪した。半平太は慶応元年(1865年)閏5月11日に切腹。なんと腹を三文字に斬り、不屈の信念を最後まで見せつけた。享年37。
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(四国銀行帯屋町支店の前に立つ碑)
(奥行き方向が南(路面電車が通る国道33号線へ出る))
史跡マップ
