西郷隆盛銅像
(さいごうたかもりどうぞう)
西郷隆盛は、盟友・大久保利通とともに幕末の薩摩藩をリードし、徳川幕府を倒し明治新政府を築き上げた維新最大の功労者のひとり。現在でも鹿児島の象徴であり、地元では圧倒的な人気を誇っている。
西郷隆盛は、明治維新の革命成就のために全生命を燃焼させた。その最期の地である故郷の城山を背にして、昭和12年(1937年)5月に銅像が建立された。狩猟を楽しむ東京・上野の西郷像とは対照的に、凛々しい軍服姿となっている。
西郷隆盛西郷隆盛は、文政10年12月7日(1828年1月23日) 生まれ。通称・吉之助
嘉永4年(1851年)、西郷25歳のときに、薩摩藩の藩主が島津斉彬
こうして西郷は名君・島津斉彬から直接薫陶を受け、斉彬の手足となって、藩外交に携わるようになった。ところが、安政5年(1858年)に彦根藩主・井伊直弼が大老になると、井伊はかねて懸案だった将軍継嗣問題に関して、次代将軍を徳川慶福
西郷にとって島津斉彬は神にも等しい主君だった。京都でその訃報に接した西郷は絶望し、殉死しようとするが、知己である勤王の僧・月照
しかし安政の大獄の嵐はますます激しさをまし、西郷は月照と相前後して鹿児島へ帰郷。しかし藩主が交代した薩摩藩では幕吏の追及を怖れるあまり、月照を追放したうえ密かに斬り殺そうとした。「事ここに至ってはもはや生きる甲斐無し」と、西郷は月照とともに鹿児島錦江湾に身を投げ、入水自殺をはかった。このとき月照は溺死したが、西郷は救助され、藩によって奄美大島に送られて3年間の潜伏生活を送ることになった。
安政7年(1860年)3月に大老・井伊直弼は江戸城桜田門外で暗殺され、幕府はそれまでの幕府主導型強硬路線から、朝廷の力を借りる公武合体へと大きく舵を取ろうとしていた。そこで薩摩藩の事実上のトップである島津久光(藩主の父にあたる)は、こうした公武合体の主導権をにぎろうと、上洛することを決意。このとき大久保利通らの進言があり、京都での周旋役として西郷が呼び戻されることになった。
しかし鹿児島に召還された西郷は、久光のことを「人望のない『地ごろ(田舎者)』では、京都に行っても何もできないでしょう」などと批判して久光を怒らせたうえ、久光上洛にさいして命令違反の単独行動をとって在京の過激派藩士たちと接触したため、「西郷は攘夷の過激派を煽動している」という噂が流れてしまった(実際には西郷は、過激派藩士たちの暴発を鎮めようとしていたとされる。過激派藩士らは直後に伏見・寺田屋で上意討ちにあい粛清された)。
西郷の突出した行動に激怒した久光は、彼を捕縛し徳之島(のち沖永良部島)へ遠島処分にした。そして西郷が流罪先で忍従の生活を送っているときに、鹿児島では薩英戦争が起きた。
久光は引き続き、京都政局で薩摩藩の影響力を高めようとしたが、以前西郷が指摘した通り、久光の外交力というのは乏しかった。さらに薩摩藩は攘夷を標榜しながら、裏では密貿易を行って利益をあげ、そのために日本国内の物価も上がっているという悪評がたち、政局運営がままならなくなってきた。
こうした背景のもと、元治元年(1864年)2月に西郷が赦免され、このときから実質的な薩摩藩のリーダーとして幕末の表舞台での活躍が始まる。
元治元年(1864年)7月に、京都での勢力回復をはかる長州の軍兵が御所に向けて進攻したのに対して、薩軍司令官の西郷はこれを撃退(禁門の変)。幕府が長州懲罰のために第一次長州征伐を起こすと、西郷は征長軍参謀となった。しかし西郷は長州と軍事的に戦闘を起こすつもりはなく、禁門の変の責任者(3家老)の切腹、長州がかくまっている五卿の出藩、山口城の破却を条件に停戦し、撤兵することに決した。
長州藩が西郷の出した条件をのんで一応の降伏をしたのは、禁門の変、対四カ国連合艦隊戦と惨敗続きの状況下で、藩政の主導権を親幕府の保守派(俗論党)が奪ったからである。しかし元治元年の暮れになって、奇兵隊創始者の高杉晋作が下関でクーデターを起こし、翌慶応元年(1865年)、政権を奪回。長州藩は完全に倒幕を目指すことになった。
こうした長州藩の動きに対して、幕府は第二次長州征伐を決定したが、西郷はもはや幕府の時代ではなくなることを見越し、幕府への協力を拒否、逆に長州とのつながりを模索するようになる。薩長軍事同盟の密約がなされたのは慶応2年(1866年)1月のことだったが、その半年前から、土佐浪士の坂本龍馬や中岡慎太郎らの仲介により、長州がほしがっている軍艦や武器弾薬を薩摩名義で購入することを認め、また薩摩が必要としている兵糧を長州から購入するなど、両藩は関係改善に向けて動き出していた。
薩長同盟の会談は、京都の二本松藩邸で始まった。西郷隆盛と桂小五郎という薩長のトップ会談は、当初互いにメンツにこだわって同盟の話を切り出せずにいたが、あやうく破談になる寸前で坂本龍馬が西郷を説得し、ようやく西郷から同盟を申し込むことで、話がまとまったという(実際には同盟成立後に龍馬が現れたという説もあり)。
同盟が結ばれたことによって、物心両面で長州軍の士気は上がり、逆に幕府側は参加した各藩に戦意がなかったことなどで、第二次長州征伐は長州側の勝利に終わった。その後薩摩藩は長州とともに倒幕への道筋をつけていったが、土佐藩の建白により15代将軍・慶喜は、政権を朝廷に返還する大政奉還に踏み切ったことで、一時は薩長倒幕派の勢いがそがれた。
西郷らは、大政奉還によって平和裏に政権が移譲されたのでは、徳川家を主体とする現在の体制に変化は期待できず、外国に対応しうる政府をつくるには、どうしても徳川家を武力討伐することで旧態を一新せねばならないと考えていた。
そこで、西郷・大久保らは公家の岩倉具視らと計って、慶応3年12月9日(1868年1月3日)宮中クーデターを敢行した。西郷は御所を軍事的に制圧し、親幕府の公家らを排して、年少の明治天皇に「王政復古の大号令」を出させたのである。そして早速新体制での最初の会議である小御所会議では、徳川慶喜が呼ばれることもなく、慶喜に「辞官納地」(内大臣の職と徳川家領地の返上−−つまり権力の完全な剥奪)を命ずることを決定した。
これに対し、慶喜はもちろんのこと松平春嶽(越前)や山内容堂(土佐)、徳川慶勝
西郷はここで奥の手を使う。江戸で薩摩藩士らに命じて江戸市中で破壊活動を行わせ、幕府を挑発したのである。これに対し江戸市中取締役の庄内藩は、三田の薩摩藩邸を焼き討ちにした。この知らせが京・大坂に届くと、旧幕府勢力が激高し「薩摩討つべし」の声が高まり、大坂城にいた慶喜は薩摩に対してついに挙兵した。こうして鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争の緒戦)が開戦。「どんな手を使っても戦を始めねばならない」と考えていた西郷の計画が実行に移されたのである。
鳥羽伏見の戦いでは、数こそ旧幕軍に劣っていたものの、戦慣れし最新の装備を施した薩長新政府軍が優勢に勝ち進んだ。天皇から錦旗を与えられたとしてこれを掲げ、薩長を「官軍」、旧幕軍を「賊軍」としたことで、旧幕派は士気が低下、各藩も日和見か旧幕軍への協力を拒む場面が少なくなくなった。土佐藩の山内容堂もここに至って倒幕派の板垣退助に軍事を任せ、新政府軍は勢力を拡大した。
敗勢が濃くなったとみた慶喜は、多くの将兵を戦地に残したまま大坂から開陽丸に乗って江戸に帰還。近畿周辺は完全に新政府軍が抑え、慶喜は朝敵となった。新政府軍は、有栖川宮熾仁親王を大総督とする東征軍を結成。西郷隆盛は東征大総督府下参謀(実質的には作戦実行の最高責任者)に任じられ、軍兵を率いて東海道を江戸に向かった。
慶応4年(1868年)3月14日、江戸・田町の薩摩藩邸で、西郷と幕府代表・勝海舟との会談が行われ、江戸城総攻撃中止を決断。4月11日に江戸城は新政府軍に明け渡された。徳川家康が戦国大名北条家の遺領を引きつぎ、江戸を本拠地にして以来270年以上にわたって君臨した徳川家の牙城がついに「落城」の日を迎えたのである。このときをもって実質的に徳川幕府は滅んだとも言われている。そして西郷隆盛の最も大きな仕事がこれで完了したともいえる。
ただし長年にわたって徳川将軍家と主従関係で結ばれてきた大名や旗本たちのすべてが、まったく新たな政体である明治政府の支配下に入ることはそう簡単ではなかった。旧幕軍の勢力はその後も、江戸で発生した上野戦争、さらに北越戦争、会津戦争と抵抗を続け、函館戦争の敗北でようやく終焉を迎えたのである(戊辰戦争終結)。
西郷隆盛も、立場こそ倒幕側ではあったが、その精神の核は旧き時代の価値観をつよく持った、誰よりも武士らしい人間だったといえるだろう。戊辰戦争が終わると、西郷はその後始末の諸作業に追われながらも、西洋化をいそぐ新政府の方針を受け入れられず、鹿児島に引きこもって暮らすことが多くなった。もともと西郷は乱世のなかにあってこそ、その実力を最大限に発揮できるタイプなのだ。明治維新は西郷と大久保のコンビで達成された部分が大きいが、現実的な政治の仕事が得意な大久保が、維新以後にも為すべき仕事を多く持ったのに対し、卓越した軍略と人間性そのものを外交の武器としてきた西郷は、革命が成ったあとではもはや、情熱と理想に満ちあふれたその大身を持てあましていたといえるだろう。
成立まもない新政府は当然のことながらその基盤は不安定であり、維新第一の勲臣である西郷が政府に不満をつのらせて故郷鹿児島に引きこもった状態というのは、国家争乱の火種を育てるようなものだった。明治4年(1871年)西郷は懇願されて、ふたたび政府に出仕、参議に就任した。そして西郷率いる薩摩兵も参加した御親兵の力を背景に、廃藩置県を断行する。
明治4年11月(1871年12月)に、欧米諸国の政治制度や文化、産業を幅広く視察するため、岩倉使節団が派遣され、当時の政府の中枢をなした大久保利通、木戸孝允、岩倉具視、伊藤博文らがこぞって日本を離れた(明治6年(1873年)9月まで。ただし帰国時期は人によって異なる)
西郷は、いわゆる留守政府を任されたが、その間に「征韓論」論争が起きる。江戸時代を通じて日本と朝鮮は交流を続けていたが、新政府に対しては朝鮮は国交を開こうとはしなかった。そこで武力に訴えてでも修好条約を結ばせようとした主張が征韓論である。その背景には、国内の不満を外征によってそらそうという意図や、朝鮮が列強の植民地となる前に日本が影響力を及ぼそうとの狙いがあった。
板垣退助は征韓論者のなかでも強硬派だったが、西郷はこれとは一線を画し、まず自分が大使として朝鮮に渡ることを提案。欧米視察から帰国した大久保や木戸は、まず内政に集中することが先決として一旦は反対したが、結局は西郷を派遣することで閣議がまとまった。
ところが岩倉具視は閣議の決定を無視して、派遣反対の旨を明治天皇に伝え、天皇がこれを了承。西郷遣朝の話は一転して無に帰した。西郷は「閣議で決した国家の重大事案がこんごと覆されては、おいがこん政府にいる意味はごわはん」と怒って辞表を提出。
西郷の辞職に合わせて、板垣退助・副島種臣・江藤新平・後藤象二郎らの参議も辞職、さらに西郷配下の桐野利秋
明治6年(1873年)11月に郷里鹿児島に帰った西郷は、翌明治7年(1874年)に私学校
明治9年(1876年)、中央政府は「廃刀令」と「金禄公債証書発行条例」を発した。これは、刀を取り上げ、俸禄を廃止するという士族(武士)の特権を剥奪するもので、いわば武士というものを名実ともにこの世から消し去ることと同じだった。これに対して士族たちは怒りを爆発させ、熊本県で「神風連
この状況をみて政府は、いずれ鹿児島でも大規模な反乱が起こるのではないかと危惧。その中心となるであろう私学校を偵察するため、警視庁大警視の川路利良
これに対し、元来薩摩藩の武備を新政府に持ち去られたとして、私学校徒たちは各地の火薬庫を襲撃し、武器弾薬を奪った。そして派遣された警吏を捕らえて拷問にかけたところ、「政府から西郷暗殺の指令を受けた」との自白があったとし、これが私学校の関係者に伝わって、激憤と緊張の度は最高潮に達した。私学校幹部、桐野利秋、篠原国幹らを中心に評議が行われ、「決起あるのみ」との結論でまとまり、狩猟の旅先から帰ってきた西郷に伝えられた。
このときの西郷の心情を詳らかにする資料はないが、結局西郷は私学校徒たちにかつがれる形で、明治政府に対する最後にして最大の内乱である西南戦争に、反乱軍の首魁として立つことになったのである。
新政府のあり方に失望していた西郷としては、武士の魂を最後に見せつけようという気概のみがあったのかもしれない。すでに維新から10年を経たこの時期、新政府の軍制や武備は急速な進展をとげており反乱軍の勝算は小さかった。ただ、維新最大の元勲が決起することで、日本各地の不平士族が呼応し、「第二の維新」への道が開かれる可能性もないわけではなかった。
明治10年(1877年)2月15日に西郷軍が鹿児島を進発して西南戦争が開始された。官軍(政府軍)は、戊辰戦争で東征大総督をつとめた有栖川宮熾仁親王
熊本の北方、田原坂
3月1日から半月以上にわたる攻防の末、ついに官軍が西郷軍の防衛線を突破した。この田原坂の戦いをピークとして、後は西郷軍の消耗退却戦となった。結局熊本を攻略できなかった西郷軍主力は、人吉、宮崎、その後北進して延岡へと転戦した。
8月15日に、西郷軍は和田越
鹿児島へ戻ってきた西郷軍は城山に籠もり、包囲する官軍に最後の攻撃をしかけたが、明治10年(1877年)9月24日政府軍の総攻撃により、西郷は腹部と腿に弾を受け、傍らの別府晋介に介錯を頼んで自刃した。享年51(満49歳)。
江戸幕府の終焉で武士の時代が終わり、新政府ができたことは、その政府をつくった武士たち自身にとっては、自分たちの存在を否定されることであり、革命者自身が行き場のないエネルギーを抱えることになったのだった。そのエネルギーが最後に爆発したのが西南戦争であり、その終息によって明治維新がようやく完成されたともいえるだろう。
ある意味では、西郷隆盛は革命の最初から最後までの面倒をすべて見た、明治維新の魂そのものだったといえるかもしれない。
(城山のふもとに建つ西郷隆盛像)
(まさしく仁王立ちの威容)
(西郷像の視線方向(南東方向))
(西郷銅像前バス停)
(西郷銅像の撮影スポット(ちなみにこの日は桜島の降灰がひどく、道行く人も灰を避けるために傘をさしている))
(西郷の座右の銘「敬天愛人」)
