大久保利通銅像
(おおくぼとしみちどうぞう)
卓越した政治能力を遺憾なく発揮し、合理的な思考のもとに幕末の薩摩藩、維新後の日本国を導いた大久保利通の銅像。
同じ「維新の三傑」である朋友・西郷隆盛とともに薩摩を代表する政治家であるが、鹿児島での大久保の人気は、江戸幕府を倒し明治日本の基礎を築いた数々の業績に比して、決して高いとはいえない。
大久保利通は、薩摩藩の下級武士の出身。文政13年(1830年)8月生まれで西郷隆盛の3歳下である。西郷とは同じ下加治屋町で共に学び遊ぶ親友だった。16歳のときに藩の記録所に勤めはじめたが、藩主・島津斉興
その後、騒動がおさまり開明的な名君として名高い島津斉彬
ところが幕府大老・井伊直弼による尊攘派への大弾圧「安政の大獄」が始まったころに、斉彬は突然病死。藩主の座は久光の子・忠義のものとなり、藩の実権は久光が握った。日本全体の将来を見据えていた斉彬に対し、久光は藩と自らの権力を第一に考える保守的な人物だった。
斉彬という理想的な主君を失い前途を悲観した西郷に対して、現実的な大久保は考え方を切り換え、久光への接近をはかった。自分を知ってもらおうと、碁好きな久光のために碁を学び、知人の紹介を得て謁見の機会をつくった。こうした努力が実を結び、やがて大久保は久光の信任を得て藩政の中枢にのぼっていった。
文久2年(1862年)、島津久光は開国後の世情の急変の中、幕政改革に積極的に参加するため、兵を率いて上京。続いて江戸にも下った。このときから大久保、西郷の中央政界での活躍も始まった。このころは公武合体路線を進める立場から、過激な攘夷藩である長州を京都から追い出すなど(文久3年 八月十八日の政変)、幕府よりの立場に立っていたが、禁門の変後の第一次長州征伐(元治元年(1864年))の処置に不満を抱いた幕府は長州再征を計画。こうした行動を時勢を顧みない幕府の傲慢と見た大久保らは、幕府の支配下から脱していく方針に転換。慶応2年(1866年)には、坂本龍馬の仲介で秘密裏に薩長同盟を結んだ。これにより第二次長州征伐では、薩摩は長州への出兵を拒否した。
14代将軍家茂の死去により、幕府は長州征伐を敗勢のまま中止。徳川慶喜が将軍になり、薩摩藩主導の雄藩連合(薩摩、土佐、越前、宇和島)の結束を巧妙につぶされた大久保、西郷は、もはや徳川家を頼みにすることはできずと、倒幕路線に舵を切った。
大久保らは岩倉具視
これに対して大久保らの倒幕派は、明治天皇による「王政復古の大号令」を発して天皇親政を宣言、さらに慶喜に辞官納地(官職と領地の返納)を命ずることを決定。これに反発した旧幕府軍と薩長討幕軍との間に鳥羽伏見の戦い(戊辰戦争)が勃発し、いよいよ旧幕府勢力が討伐されることとなった。
明治新政府ができると、大久保は中央集権国家としての基盤をいち早く確立するために、版籍奉還、廃藩置県を断行、明治4年からの外遊帰国後に、征韓論を主張していた盟友・西郷を政治中枢から追い出した(明治六年の政変)。さらに内政のほとんどの実権を握る内務省を新設してみずから大臣(内務卿)となり、地租改正や徴兵令などの国家の根幹となる法制を定め、封建制の終わったばかりの日本が一日も早く西洋諸国に追いつくよう、富国強兵につとめた。
しかし、こうした急激な改革が旧武士階級(不平士族)を中心に反発をよび、萩の乱・神風連
(諸事洋風を好んだ大久保利通に似つかわしく、さっそうとフロックコートをひるがえしている姿が銅像となっている)
(銅像の背面)
(大久保が座右の銘とした「為政清明
(銅像が建つ高見橋は市内を流れる甲突川
(大久保の銅像は写真の大きなビルの左端あたりに重なる位置。道路をはさんで、甲突川沿いの「維新ふるさとの道」の入口(右側の木立のあたり)と対面している。ゆかりの場所といえばそうなのだが、維新の元勲の銅像としては、決して目立つ場所でもなく、落ち着いて眺めやすい場所でもない。なぜこんな場所に銅像が建っているか、それは鹿児島市民の複雑な感情を示しているといえるだろう。明治政府で国家のかじ取りを担った大久保は、西南戦争で故郷の鹿児島を攻め、西郷隆盛をはじめ多くの旧薩摩藩士たちを葬ってしまった。「せごどん(西郷)」が圧倒的な人気を誇る地元にあっては、西郷の仇である大久保利通はまったく不人気なのである。この大久保の銅像は大久保没後100周年の昭和54年(1979年)にようやく建てられた。一方、城山を背にし堂々たる存在感を放つ西郷隆盛像は、昭和12年(1937年)に完成している)
