村田新八誕生地
(むらたしんぱちたんじょうち)
村田新八ほど、西郷をよく理解していた薩摩武士もいないだろう。天保7年(1836年)下加治屋町に生まれた新八は、幼少のころから西郷を慕い、その薫陶を十分に受けた。一生涯を西郷の手足となって国事に奔走することにささげ、「西郷の懐刀」とも言われた。
文久2年(1862年)、島津久光が上京したおり、久光の意を受けた藩士たちが、有馬新七
その後、政局の混迷で薩摩藩の外交に西郷の力が必要とされるようになり、元治元年(1864年)に西郷は赦免。西郷は鹿児島へ帰還途中、喜界島に立ち寄って新八を連れて帰った。
新八は薩長同盟締結に尽力し、倒幕に向けて長州・土佐の志士たちと盛んに交流した。
戊辰戦争で西郷が東征大総督府の参謀になると、新八は二番小隊長として中村半次郎
明治維新後、新八は欧米を視察する岩倉使節団に随行し、西洋の文物を見聞した。しかし明治7年に帰国した新八は、征韓論論争に敗れた西郷が辞職して鹿児島に帰ったことを知り自分もすぐに帰郷。鹿児島で桐野、篠原らと私学校を設立し、砲隊学校の監督を務める。
西南戦争では、二番大隊長となり各地を転戦したが、政府軍の物量に押されて敗退を続け、鹿児島・城山で西郷の自刃を見届けたあと戦死をとげた。享年42。戦場ではフロックコートを着、ときたまアメリカで買った手風琴(アコーデオン)を弾いていたという。また勝海舟は「大久保利通につぐ傑物なり」として新八の死を惜しんだ。
(死ぬまで西郷隆盛を支え続けた村田新八の誕生地碑)
(誕生地碑は、鹿児島中央高校の南端にある)
(左右の通りがみゆき通りで、左へ行くとメインストリート・天文館電車通りと交差する)
