伊藤博文旧宅
(いとうひろぶみきゅうたく)
伊藤博文は、周防国束荷
伊藤らは途中上海に寄り9月にイギリスに到着。上海、イギリスで西洋文明の威力を目の当たりにした彼らは即座に攘夷を捨て、開国論者となって現地で英語を学び西洋への見識を深めた。翌元治元年(1864年)、長州藩の攘夷実行に対するイギリスの報復が行われることを知った伊藤と井上は、予定を切り上げて帰国。戦争回避に向けて奔走したが、藩の強硬派は主戦論を捨てず、結局8月5日に下関戦争が勃発。長州側は四カ国連合艦隊の圧倒的火力の前に完敗した。
戦後、伊藤は講和会議に通訳として参加した(長州側代表は高杉晋作)。
一方、下関戦争の直前に京都で起きた禁門の変(長州の敗北)により、幕府が長州征伐(第一次)を決定すると、長州藩は佐幕派(俗論党)が政権を取り、幕府に降伏して恭順の意思を示した。こうして長州藩の倒幕活動の火が消えようとしていたときに、高杉晋作が亡命先の九州から舞い戻り、決起のクーデターを呼びかけた。奇兵隊をはじめ大多数の諸隊が「高杉の暴挙だ」として静観する中、伊藤が決死の覚悟で高杉の元に駆けつけたことが、クーデターの成功に大きく寄与したのだった。
倒幕路線を確立させた長州藩は、その後、薩長同盟を結んで幕府を倒し、新政府を樹立。伊藤は参与、兵庫県知事、工部卿などを歴任、明治4年(1871年)には岩倉使節団の副使として、欧米を視察した。明治18年(1885年)内閣制度が発足し初代の内閣総理大臣となった。また明治22年(1889年)に公布された大日本帝国憲法の制定に中心的な役割を担った。
第二次伊藤内閣のとき日清戦争が勃発。伊藤は陸奥宗光とともに全権として下関講和条約に調印。のち日露戦争には慎重な姿勢をとっていたが、開戦後は有利な条件で終戦に持ち込むために尽力した。
明治37年(1905年)第二次日韓協約で、韓国統監府が設置され、伊藤は初代統監に就任した。そして明治42年(1909年)10月、ハルビン駅で、伊藤を韓国支配の象徴とみなした安重根
(「明治の元勲」と呼ばれた伊藤博文の萩在住時代の旧宅玄関。松下村塾から非常に近い場所にある。伊藤は14歳から28歳までこの家を自宅とした)
(旧宅外観)
(台所土間)
(中央の茅葺き屋根が旧宅)
(旧宅横の広場に立つ「公爵伊藤博文像」)
(旧宅の隣に建つ別邸。伊藤が明治40年に東京府下荏原郡大井村(現・東京都品川区大井)に建てた別邸の一部を移築したもの)
(別邸のそばの説明板。「長州ファイブ」とは、文久3年(1863年)にイギリスに密航留学した5人をさし、ロンドン大学にその名を刻した碑がある。同名の映画も話題になった)
