山縣有朋(山県有朋)誕生地
(やまがたありともたんじょうち)
山縣有朋は長州藩の足軽出身で一時期松下村塾で学んだ。高杉晋作の創設した奇兵隊に入り、高杉が総督をやめた後に軍監となって奇兵隊のリーダーとなる。明治以後は陸軍・政界の実力者として長く君臨した。
萩の貧しい足軽出身だった山縣有朋の幕末時代の通称は狂介。期間は短かったものの松下村塾で松陰の授業を受けたため、村塾グループの一員として倒幕運動の中心勢力の一員となることができた。
高杉晋作が、保守派に奪われた藩の実権を取り戻すべく下関でクーデターを起こそうとしたとき、奇兵隊の軍監(将校)だった山縣は、成算のない無謀な決起と決めつけ、高杉への協力を拒んだ。結局高杉は伊藤俊輔(博文)らのグループを加えたわずか80人ほどで兵をあげたが、高杉の大胆かつ緻密な戦略により、たちまちのうちに下関を占領し、日を追って反乱軍は勢力を増していった。
山縣はこの様子を見て初めて高杉への加勢を決めたのだった。山縣有朋が維新後、軍政の整備・強化に多大な業績を残したにも関わらず、あまり大衆に人気がないのは、権力への信奉が強い実利主義者というイメージが色濃いからだろう。
しかし、高杉のクーデターが成功したあと、奇兵隊を率いて俗論党が支配する藩政府軍と大田・絵堂などで死力を尽くして戦い、勝利をもたらした功績は大きい。この勝利によって長州藩はふたたび尊攘・倒幕派が政権を握り、薩長同盟を成立させ、倒幕に向けて一気に加速していくことになる。また(第二次)長州征伐、戊辰戦争でも活躍した(戊辰戦では北陸道鎮撫総督・会津征討総督参謀)。こうした戦績があったことで明治後、山縣は陸軍長州閥の巨魁となり、ながく政界に君臨した。
西南戦争では、参軍という最高司令官の立場に立ち、薩摩西郷軍を大量の兵器と人員を動員して押しつぶした。また、日清戦争(明治27年(1894年)〜明治28年(1895年))では第1軍司令官、日露戦争(明治37年(1904年)〜明治38年(1905年))では参謀総長として軍の指揮にあたった。明治22年(1889年)〜明治24年(1891年)と、明治31年(1898年)〜明治33年(1900年)の2度に渡って内閣総理大臣を務めている。
(橋本川の近くにある山県有朋誕生地の碑)
(山県有朋の業績を記した案内板。碑に向かい合っている)
