松下村塾
(しょうかそんじゅく)
松下村塾は、萩の郊外・松本村にあった私塾。海外への密航に失敗した吉田松陰が故郷の萩に帰り、国難に対処し新たな時代をつくる人材を育てるため、ここで子弟を集めて教育した。
村塾の四天王と呼ばれた、高杉晋作、久坂玄瑞、吉田稔麿
松下村塾は、もともと吉田松陰の叔父・玉木文之進が開設し、のちに松陰が密航の失敗で国元に謹慎になったときに、実家の杉家を改装して主宰したもの(安政3年(1856)年)。塾生はだいたい50〜80人くらいだったという。
塾は身分を問わず、希望者は誰でも入学することができた。正規の藩士でないために藩校の明倫館に入れないものであっても松陰の教えを受けることができたため(松陰は以前、明倫館の教授も務めていた)、のち明治政府の中枢を牛耳る伊藤俊輔
また、桂小五郎は塾生ではないが、明倫館時代に松陰に教えを受けた。
松陰が教えた期間は、わずか2年半にしかすぎなかった(実家の幽囚室で1年半ほど教え、松下村塾で教えていたのは約1年)が、松陰は教育者としてたぐいまれな才能を持っており、彼に接したほとんどの人間が松陰に感化されたという。松陰が獄にあったときには、その獄中の囚人でさえ変わらずにはいられなかったといわれるほどだ。
そして松陰は、幕府の対外政策が誤りであることを確信すると、堂々と倒幕を表明し、そのために藩に投獄され、その後幕命で江戸に送られ(安政の大獄)、取り調べのときに、みずから進んで老中暗殺の計画を持っていたことを役人に告白した。そのために松陰は死罪となってしまったのだが、至誠を持って事に当たれという教えを実践したともいえる死に様そのものが、その後の塾生たちに大きな影響を与えたといえるだろう。
(松下村塾の講義室)
(講義室の隣の間に掲げられている松下村塾ゆかりの人々の肖像。左上から、久坂玄瑞(塾生)、高杉晋作(塾生)、松陰先生、前原一誠(塾生)、木戸孝允(門下生)、山田顕義(塾生)、品川弥二郎(塾生)、野村靖(塾生)、山県有朋(塾生)、伊藤博文(塾生)、境二郎(塾生)、飯田吉次郎(塾生)、河北義次郎(塾生))
(「親思ふ こころに勝る親心 けふの音づれ何ときくらむ」 自分が処刑されることを悟った松陰が、江戸から故郷宛ての手紙の中でしたためた)
(密航を企てた罪で伝馬町の牢に入ってのち帰国。萩ではいちど野山獄に入れられたが、1年後に許されて実家に預けられ、この3畳半ほどの部屋に幽囚の身となった。松陰はここで1年半ほど教え、弟子が増えると松下村塾に移って約1年教えた。そしてまた反幕的な言動を咎められて江戸に送られ、最期をむかえる)
(松下村塾に隣接した松陰神社)
