久坂玄瑞誕生地
(くさかげんずいたんじょうち)
幕末の長州藩は過激な尊皇攘夷運動を展開し、開国政策を進める幕府と対立していくが、その尊皇攘夷の先陣に立っていたのが久坂玄瑞だった。久坂は藩医の息子として生まれ、遊学先の熊本で、宮部鼎蔵
松陰刑死後、久坂は長州藩の攘夷運動を主導し、公武合体派の家老・長井雅楽
幕府はやむをえず朝廷に攘夷を誓ったが、長州藩はその誓いを文字どおり実行。文久3年(1863年)5月に下関で外国船を砲撃した。しかし長州藩の過激な行動に反発した薩摩藩や会津藩の策謀によって、8月に宮廷クーデターが起き、長州藩は突如として京都から追放されてしまった。
久坂はその後、桂小五郎らとともに長州藩の復権のために尽力していたが、この事態に来島又兵衛
翌元治元年(1864年)6月に起きた池田屋事件が最終的な引き金となって、長州藩は兵力2,000を率いて上京。久坂は最後まで朝廷に対して長州藩の冤罪と復権を求めて嘆願を出したがかなわず、来島又兵衛の隊は蛤御門へ突入。薩摩、会津軍と激烈な戦闘となった。久坂隊も堺町御門から入った。しかし薩摩兵の攻撃を受けて来島は戦死。久坂は、公家・鷹司政通
(長州藩の攘夷運動の先頭に立ち、禁門の変で敗れて自刃した久坂玄瑞。その誕生地跡には「久坂玄瑞君追憶碑」が建てられている。和歌は三条実美が京に散った久坂を偲んで詠んだもの。「九重のみはしのちりをはらはむとこゝろも身をもうちくたきたる」)
(萩循環・まぁーるバスの停留所「久坂玄瑞誕生地前」からは徒歩ゼロ秒!)
(久坂玄瑞誕生地近くにある平安古(ひやこ)地区の鍵曲(かいまがり)。鍵曲は、侵攻してくる敵に障害となるよう道路を直角に曲げて見通しを悪くしたもの)
