アーネスト・サトウ住居跡
(あーねすとさとうじゅうきょあと)
アーネスト・サトウは幕末期に活躍した英国の通訳官・外交官。維新後は駐日英国公使となった。日本語に堪能で日本文化に深い造詣をもち、幕末期の外交交渉の場を通じて西郷隆盛、大久保利通、伊藤博文、勝海舟、徳川慶喜といった数多くの要人たちと面識をもち、また個人的にも多くの日本人と親密な交流があった。
当地は、慶応2年(1966年)11月に英国公使館が江戸に建設された後、公使館員のサトウが借りて住んだ屋敷跡付近にあたる。
英国領事館(のち公使館)は当初、高輪東禅寺にあったが、攘夷派による襲撃(東禅寺事件)のあと横浜に移転していた。その後、品川御殿山で新公使館の建設が始まったが、高杉晋作ら長州志士たちによって焼き討ちにあい、慶応2年(1866年)の11月にようやく新しい公使館が泉岳寺前に開設された。
公使館員のアーネスト・サトウは公使館の移転に合わせて、泉岳寺のほど近くに住居を借りて同僚の書記官ミットフォードと共に住んだ。当地は江戸湾を見下ろす高台にあり、二階建てで広い庭園をもち全体の広さは800坪(約51メートル四方)ほどあったという。多数の部屋をそれぞれ寝室、外国人用の客間、日本人用の客間、自分の書斎などに割り当て、公使館の仕事や日本語の勉強に打ち込み、日本人との交流を重ねた。
アーネスト・サトウアーネスト・サトウ(Ernest Mason Satow)は、その名から日本系の血筋をもつのではと思われがちだが、そうではなく、ドイツ人の父とイギリス人の母をもつ1843年6月生まれのロンドンっ子である。しかし日本に来てから自分の姓の「サトウ」が日本人的であることを肯定的に活用し、「薩道愛之助」または「佐藤愛之助」などという日本名を名のり、日本人や日本文化の中に積極的にみずからを溶け込ませようとした。また正式な結婚ではないが内縁の妻として日本人女性を娶っている。
18歳のときサトウは『エルギン卿のシナ、日本への使節記』という本やペリー提督の日本遠征記を読んで、遠い東洋の異国である日本へのあこがれと好奇心を強く抱いたという。そして大学在学中に日本への通訳生募集の告知に応じ、競争試験を受けて合格を果たした。
サトウがイギリス公使館職員として来日したのは文久2年(1862年)8月のことだった。サトウはこのときまだ19歳。日米修好通商条約の締結の翌年(安政6年(1859年)6月)に横浜が開港してから3年がたち、横浜には各国の公館や商館が建ち並んでいた。外国人による文化的・経済的な「侵略」に対して憤激する攘夷派志士たちにより、外国人襲撃事件が頻発するようになっていた。実際、サトウが横浜に到着したわずか6日後に、薩摩藩士が外国人を殺傷する生麦事件が発生している。
生麦事件の交渉のため、英国代理公使のニールはキューパー提督に命じて鹿児島へ艦隊を派遣させた。このときサトウも通訳として同行し、交渉決裂後に起きた薩英戦争(文久3年(1863年)7月)を自身の目で目撃している。
また翌元治元年(1864年)7月には、キューパー提督が四国連合艦隊の司令官となり、列強に対して攘夷を続ける長州藩を圧倒的な火力で屈服させた(四国連合艦隊下関砲撃事件)。サトウは艦隊に同行し、戦後の長州藩との講和会議に通訳として参加した。このとき長州側の代表者は高杉晋作であり、伊藤俊輔(博文)が日本側通訳を務めていた。伊藤は前年に長州藩が下関海峡で外国船を砲撃したというニュースを留学先のロンドンで知り、藩の危急を救うために井上聞多(馨)と共に急ぎ帰国したのである。サトウは帰国した両名を横浜から長州まで送り届けている。
慶応元年(1865年)11月には、安政五カ国条約勅許を得るために英仏蘭三国艦隊の兵庫沖派遣に参加し、そのとき薩摩の西郷隆盛と初めて会っている。その西郷は討幕派の首魁として慶応3年(1867年)12月王政復古の大号令のクーデターを成功させた。そして政界から排除された徳川慶喜が京都を去り大坂城に入ったさいに行われた公使パークスとの会見にサトウは立ち会った。こうして新政府誕生前後の混乱期には、西郷隆盛、大久保一蔵、勝海舟、木戸孝允、後藤象二郎、岩倉具視、三条実美、明治天皇と、幕末維新の要人たちのほとんどと会っている。
維新後は何度か賜暇によりイギリスに一時帰国しながらも、サトウにとって第二の祖国ともいえる日本との関係は続いた。明治新政府の統治が安定してくると旅行好きなサトウは日本各地を見聞して回り、その文化や日本精神を貪欲なまでに吸収しようとした。神道にも深い造詣を示し英国人からみた神道論を著している。サトウは正式な結婚ではないが、武田兼を妻として二児をもうけ、明治17年(1884年)には旧旗本屋敷(現在の法政大学敷地)を自宅として購入し、妻子と共に日本滞在時の住み処とした。
明治16年(1883年)イギリスに戻ったあと、シャム、ウルグアイ、モロッコの領事を経て、明治28年(1895年)7月、52歳のときついに駐日英国公使となった。当時日本は日清戦争に勝利しながらもその直後の三国干渉により、ロシアへの反発が急速に増しつつあるころであった。イギリスも極東におけるロシアの動きを警戒しており、日英同盟への動きがこのころから芽生えていたと言われる。しかしサトウは日英同盟締結前の明治33年(1900年)に駐清公使として北京に赴任、義和団の乱への対処に当たった。1906年62歳のときに故国イギリスに帰り、枢密顧問官となる。引退後はデボンシャイアのオタリ・セントマリーで著述作業に従事し、1929年(昭和4年)8月26日同地で死去した。享年86。
サトウは単なる通訳官にとどまらず、当時の日本の政治状況を極めて正確に分析していた。日本が開国したとき、列強各国の認識は、日本政府の代表は徳川幕府であり朝廷は伝統的な権威のみの単なるシンボルであるというものであった。しかし実際には幕府の実力は急速に衰え、代わって西南雄藩の後ろ盾を得た朝廷が政治の実権を奪い返そうとしていた。日本の勢力図の変化を正確な分析眼で読み取っていたサトウは、外交団首脳や本国政府の意向にも少なからぬ影響を与えたと推測される。サトウが慶応2年(1866年)に英字新聞に掲載した論文は「英国策論」として翻訳され、西郷隆盛をはじめ多くの有力政治家・活動家に読まれた。
サトウの同僚で公使パークスの下で共に働いていたミットフォードは次のように述べている。「パークス(英国公使)は側近にサトウ氏という実に有能な人物を置いていた。サトウはまことに日本語に精通しており、彼の持つ素晴らしい機転の良さと気取らない誠実さとあいまって、日本の指導層にいる人々と友好的な関係をきずくことを可能にした。こうして若いにもかかわらず相当の地位にまでのぼりつめ、上司にとっては計り知れないほどの利点をもたらすこととなった……パークスにはサトウの賢明な知恵と助言の価値をくみとる才覚があり、それを見いだすと実現に向けて行動する勇気と強固な意志がそなわっていた」『リーズデイル卿回想録』1915年(B・M・アレン著・庄田元男訳『アーネスト・サトウ伝』より)
幕末期からの駐日英国大使(領事/公使)(Wikipediaより)
<着任年>
1859年(安政5-6年) サー・ラザフォード・オールコック全権領事(1862年(文久元-2年)から全権公使)
1865年(元治元-2年/慶応元年) サー・ハリー・パークス全権公使
1883年(明治16年) サー・フランシス・プランケット全権公使
1889年(明治22年) ヒュー・フレイザー全権公使
1894年(明治27年) パワー・ヘンリー・ル・プア・トレンチ全権公使
1895年(明治28年) サー・アーネスト・サトウ全権公使
1900年(明治33年) サー・クロード・マクドナルド全権公使(1905年(明治38年)より全権大使)
(赤穂浪士の墓地で有名な泉岳寺。この門前に英国公使館があった)
(上の写真から浅草線泉岳寺駅方面に少し降りてきた場所。このあたりの道筋は幕末期からほとんど変わっていない)
(上の写真で道路の反対側から(泉岳寺三門を背にしている)。奥の信号は第一京浜(旧東海道)に突き当たる交差点で、幕末期は海岸線となっていた。サトウとミットフォードが住んだ邸宅はこのあたりと推測される。(史料によっては寺院のように書かれているが)、サトウ著「一外交官の見た明治維新」の記述によると、おそらくは高禄の武士が所有していた家屋敷のようである。「この家は江戸湾を見渡す切り立った丘の上にあって、高屋敷と呼ばれていた。〜〜書斎は九フィート四方で、海を一望におさめることのできる円形の窓と、その横側には庭園を見渡せる角窓がついていた」(同著より)と説明されており、当時の情景がしのばれる)
(こちらは泉岳寺前の住居跡ではなく、明治維新後にサトウが購入した家屋敷の跡。現在は法政大学(千代田区富士見)の敷地となっている。左手は靖国神社の境内)
(上の写真のなかほどにある碑の銘文。法政大学の図書館の裏手にある。サトウがイギリスに帰国した後も妻子たちの住み処となり、サトウは彼らに仕送りを続けたという)
