幕末トラベラーズ

江戸の史跡

榎本武揚銅像
(えのもとたけあきどうぞう)

榎本武揚銅像
東京都墨田区堤通2丁目

幕臣として最後まで新政府軍と戦った榎本武揚の銅像。榎本は戊辰戦争で旧幕臣を引き連れて箱館に拠り、蝦夷共和国総裁となった。五稜郭の戦いで降服し投獄された後、明治政府に出仕。海軍卿、逓信大臣、文部大臣、外務大臣、農商務大臣など要職を歴任し、外交や殖産興業の分野で日本の近代化に多大な貢献を果たした。

この地は榎本晩年のゆかりの地。榎本は政界引退後、向島の邸宅で悠々自適の生活を楽しみ、しばしば墨堤や百花園の周囲を散策したという。

榎本武揚銅像

大正2年(1913年)に建てられた榎本武揚像は、もともと木母寺(もくぼじ)境内の木立の中にあったが、東京都の防災計画により寺が移転し、この銅像だけが当地(梅若公園)に残されている。

榎本武揚

榎本武揚の人物評は人によって大きく分かれる。批判的な立場というのは福澤諭吉に代表される。福澤はその著「痩我慢の説」の中で、幕臣として最後は旧幕府軍のトップとなりながら、戦死した将兵たちと運命を共にせず、やがては新政府に出仕して出世をとげた榎本の生き様を痛烈に批判している。主君が敗れ没落すれば家臣たる者は二君に仕えることなく静かに退隠するのが武士の道であるというのである。いっぽう、榎本を肯定的にとらえる立場では、榎本は新政府や旧幕府という枠にとらわれず日本の近代化を目指すという目的で終始一貫していたのだと主張する。幕末の修羅場からつねに距離を置いていた福澤に、歴戦の志士を批判する資格はないと逆批判する者もいる。榎本への評価はともかくとして、かれが幕末においては初期の海軍の育成に、維新後においては殖産興業や外交において数々の業績をあげたことはまぎれもない事実としてあげなければならない。

榎本武揚の父・箱田真与は備後国の郷士の家に生まれ、数学、天文学、測地術を修めた秀才で伊能忠敬の弟子として日本地図の作成にも関わった人物である。榎本はそんな技術系の遺伝子を受け継いだに違いない。18歳のときに昌平坂学問所に入ったがこの幕府の伝統的な官学に興味が持てなかったらしく成績はふるわなかった。しかし長崎海軍伝習所の2期生として入学した榎本は教授のカッテンディーケが鮮烈な印象をとどめるほど優秀な生徒となった。そして江戸に帰った榎本は築地の軍艦操練所の教授となるのである。

文久3年(1863年)4月からオランダ留学生として蒸気機関学をはじめ軍艦を建造し運用する諸学や自然科学、国際法を学ぶことになる。かれはまた1864年2月に勃発したデンマークとプロシアの戦争(デンマーク戦争)を観戦武官として間近に見る機会を得る。この経験はのち戊辰戦争で遺憾なく活かされることになった。

1865年の11月に幕府がオランダに発注していた蒸気船・開陽丸2600トンが進水式を迎えた。そして慶応3年(1867年)3月、留学生の最終任務としてこの巨艦を日本に回航する作業も無事完了した。このとき榎本武揚は32歳だった。帰国した榎本は開陽丸の艦長となり開陽丸は幕府艦隊の旗艦となった。

榎本が日本を離れていた足かけ5年の間に日本の政治情勢は大きく変わり、薩摩藩と長州藩は攘夷を捨てて倒幕で一致し共闘する態勢となっていた。いっぽう徳川慶喜は幕府が日本外交の主体であることを内外に示すため朝廷に圧力をかけ、朝廷が最後まで拒否し続けていた兵庫開港を認めさせた。そして年末の兵庫開港実施に向けて万全の準備を整えるべく、10月に幕府艦隊を摂津沖へ出動させた。

徳川慶喜は、薩長ら討幕派の機先を制するために大政奉還の挙に出たが、あくまで徳川家打倒をめざす討幕派は京都朝廷を押さえ、王政復古のクーデターを断行した。慶応4年(1968年)正月に旧幕府軍は京都へ向けて進軍、鳥羽伏見の戦いが勃発する。榎本は軍艦開陽丸を操って大坂湾の薩摩軍船と交戦し、これを駆逐した。しかし陸上戦では幕府軍が新政府軍に敗退し、前途を悲観した慶喜はわずかな側近と大坂城を脱出し開陽丸(榎本はこのとき乗船していなかった)で江戸に帰還する。

4月に江戸城が新政府軍に明け渡された後も榎本はかれらの支配下に入ることなく、開陽丸はじめ8隻の旧幕府艦船を率いて品川沖を脱走した。そして仙台で大鳥圭介、土方歳三ら旧幕府軍将兵や奥羽越列藩の敗残兵を収容して蝦夷地へ到着。朝廷に蝦夷支配を認めることを嘆願したが新政府軍に拒否された。

このとき榎本の青写真としては、新政府に屈することのできない(志をもった)旧幕府の将兵たちを、蝦夷という新天地に解放させ、独自の国家を共に建設したいという思いがあっただろう。のちに不平士族の代表として新政府に対抗した西郷隆盛の姿と重なって見える面もある。

だがこの榎本の計画は、開陽丸を座礁で失うという不運で大きく狂うことになる。それまで西洋列強は榎本一派を新政府に対抗しうる交戦団体として認めており、榎本はかれらに新政府との講和仲介を期待していたのだが、主力艦の喪失により軍事力が大きく低下し、交戦団体としての認定が取り消されてしまったのである。そんななかでも明治元年(1868年)12月にはいわゆる「蝦夷共和国」を設立し、その総裁に榎本が選挙によって選ばれた。日本で初めての首長選挙である。

榎本は長崎海軍伝習所に入る前に蝦夷地の巡察に従っており、現地の地理や気象に通じていた。かれは、開拓事業によって農畜産業・鉱工業を興し、真の独立国へと成長させる可能性を確信していただろう。しかし新政府による鎮圧部隊はその夢を見させる暇を与えなかった。

新政府軍は明治2年(1869年)4月、乙部に上陸。5月には函館湾で軍艦同士の砲撃戦が繰り広げられる。箱館山の南に上陸し土方歳三が戦死。そしていよいよ本陣の五稜郭が攻撃されようとする直前に、薩摩の参謀・黒田清隆は降伏勧告の使者を送った。しかし榎本はこれを拒否するとともに、オランダ留学時以来手元に置いて愛読していた「海律全書」を黒田に贈った。戦火で焼失させるには惜しい書物ゆえ新政府で活用して欲しいとの意図だった。これに黒田は感激し、何とか榎本という貴重な人材を政府内で活かしたいと考えた。弁天台場、千代ヶ岱陣屋が落ちるに及んで榎本は自刃しようとしたが側近にとめられ、最終的には降服の道を選んだ。

ここで収監された榎本の処遇が問題となり、大村益次郎らは極刑を主張したが、榎本を新政府で採用したいという黒田清隆や福澤諭吉らの助命嘆願によって、2年半の獄中生活ののち明治5年(1872年)3月に榎本武揚は釈放された。当初榎本は新政府に仕えることを躊躇していたが、黒田が次官として務めていた北海道開拓使に出仕することを決めた。もともと榎本は北海道開拓に夢を抱いていたから、この選択はある意味自然な成り行きといえるものだったかもしれない。

その後、海軍中将となり駐ロシア公使として樺太・千島交換条約を締結、駐清公使として甲申事変の処理にあたった。明治18年(1885年)に内閣制度が発足すると第1次伊藤博文内閣で逓信大臣に就任。さらに文部大臣、外務大臣、農商務大臣など要職を歴任した。

鳥谷部春汀に「江戸っ子の代表」と判を押された榎本釜次郎武揚は、晩年を向島の川辺で酒と花を愛しつつ静かに過ごし、明治38年(1905年)10月26日病いにより死去した。享年73。

PHOTO

(梅若公園に立つ榎本武揚銅像。銅像が建てられたときは木母寺(もくぼじ)境内の木立の中だった)

(大礼服姿で右手に帽子、左手にはサーベルを持つ堂々たる姿の像となっている。左の建物の向こう側には隅田川が流れる)

(右手の道路は墨堤通り。標識の矢印を右に折れるとすぐ東武伊勢崎線(スカイツリーライン)鐘ヶ淵駅がある)

(榎本武揚の経歴を示す説明板)

(榎本像はスカイツリー方向を眺めている)

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