幕末トラベラーズ

江戸時代の幕引き役をつとめた最後の将軍

徳川慶喜

とくがわよしのぶ
天保8年9月29日〜 大正2年11月22日
(1837.10.28〜1913.11.22)
略歴
水戸藩主・徳川斉昭の七男として江戸に生まれる。[天保8(1837)]

一橋家を相続する。[弘化4(1847)]

安政の大獄で隠居謹慎処分を受ける。[安政6(1859)]

徳川家茂の将軍後見職となる。[文久2(1862)]

将軍後見職を辞任し、禁裏御守衛総督となる。禁門の変で活躍。[元治1(1864)]

第15代征夷大将軍に就任[慶応2(1866)]

大政奉還を実行。[慶応3(1867)]

江戸城を出て上野寛永寺で謹慎、いったん水戸へ戻った後、駿府(静岡)へと移住して引き続き謹慎。[慶応4(1868)]

謹慎が解かれたが、そのまま静岡に居住。[明治2(1869)]

東京へ戻る。[明治30(1897)]

77歳で病没。[大正2(1913)]
生涯

徳川慶喜は日本の救世主!?

15人の徳川歴代将軍のなかでもっとも頭の回転が速く、それゆえに回転速度が並以下の人々からはほとんど理解されなかった男・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)。それは将棋の名人の指す手が、素人には一見理解不能と映るのに似ているかもしれない。

しかしその徳川慶喜も「幕末」という難しい局面では勝つことができなかった。将軍になったときには、すでに飛車も角も取られていて如何ともしようがなかったのだ。 しかしそれでもベストを尽くし、江戸時代の見事な幕引き役を演じた徳川幕府第15代征夷大将軍・徳川慶喜。ここではそんな慶喜に親しみをこめて「ノブちゃん」と呼ぶことにしよう^^。

ノブちゃんがやりとげた最も大きな仕事は、家康以来260年以上も続いた徳川幕府の政権をみずから朝廷に返し、江戸時代を終わらせたことである。しかもそれを極力血を流さない形で実現させた。これはたいへんなことだ。こんなことは日本の歴史上、他の誰もやったことがない。

しかしあまりに時代を先取りした「新人類」だったことが彼にとっての不幸だった。ノブちゃんは、とにかく他人がどう思おうが我関せず、つねに合理的に物事を考え、忠義や孝行や恥の文化などという伝統的な価値観にはまったく縛られない人間だった。

また、アタマの回転が速すぎるのか、あるいは軽すぎるのか、他人の数倍のスピードで脳味噌がぴゅるるるんっとすばやく回転してしまう。回転の止まった角度がちょうど180度になるときも多い。すなわち断固やると決めたことをあっけなく「やーめたっ!」と放り投げてまわりに大迷惑をかけたり、あるいは360度回りきって、結局何も考えてないじゃん、と多くの人に誤解されてしまうこともあった。

家来たちの間でも、「どうもノブ様のおっしゃることはコロコロ変わって困る」「いったい何考えでっかさっぱりわがんね」などと不満をもたれることが多かった。

さらに、卓越したベロの持ち主でもあり、議論でノブちゃんに勝てる人間は皆無である。もし彼が現代に生き「朝まで生テレビ」に出ていたら、他の出演者はほとんど口を挟めずに終わってしまうだろう。

そんな調子だから、最初はノブちゃんの能力を高く買っていた人々もだんだんうとましく思うようになってきて、気がつくと周りは「敵」だらけになってしまった。朝廷も外様大名も親藩の大名も、そして幕府の人々のなかにも、ノブちゃんのことをこころよく思っていなかった者が大勢いた。

しかしノブちゃんにしてみれば、自分の脳味噌のコンピュータの性能にかなうやつは誰ひとりいないのである。誰からも理解されなくてもかまわない。「日本を救えるのは自分しかいない」のだ。


(徳川慶喜が生まれた水戸徳川家上屋敷跡)

一橋家に養子に出される

ノブちゃんは天保8年(1837年)9月、日本一の尊皇攘夷家として天下に名を知られていた水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の七男として、水戸藩の江戸上屋敷で生まれた。現在の東京ドームのあたりである。幼名は七郎麻呂(しちろうまろ)

ノブちゃんは弘化4年(1847年)に一橋家に養子に入り、その名も「一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)となった。水戸藩(水戸徳川家)といえば徳川御三家のひとつ。超名門である。なのになぜわざわざ一橋家の人間になったの?

それは、時の12代将軍・徳川家慶(いえよし)の意向といわれる。家慶が老中・阿部正弘を通してノブちゃんの噂を聞きつけ、「水戸家のノブとやらは、たいそう利発な子だそうじゃな」と、会ってもいないノブちゃんのことをいたく気に入り、いつの日か将軍にしたいと思ったのである。

どういうことかというと、水戸家は他の御三家(尾張徳川家、紀伊徳川家)よりも家格が一段下であり、将軍を出したこともない。もし将軍家(徳川宗家)に跡継ぎができないときは、尾張藩か紀州藩、あるいは御三卿(田安家、清水家、一橋家)のどれかから男子をもらってきて養子にする、という不文律があったのだ。水戸家にいたままでは将軍になることはむずかしい。つまり、ノブちゃんは将来の将軍候補として期待されたために、一橋家に養子に出されることになったというわけだ。


(徳川慶喜が養子にはいった一橋家の屋敷跡)

幕府独裁の時代がおわる

じっさいノブちゃんは、薩摩藩の島津斉彬 (なりあきら)や越前福井藩の松平春嶽(しゅんがく) ら開明的な大名たちから推されて次期(14代)将軍の有力候補になった。ノブちゃんなら未来志向的に幕府をうまく改革し、ペリー来航以来混乱をきわめているこの国をリードしていけるのではないかという期待を集めていたのだ。

だがこのとき、彦根藩主だった井伊直弼(いいなおすけ)という超保守的な考えをもつ男がのし上がってきて幕府大老となり、次期将軍候補としてノブちゃんのライバルだった紀州藩の徳川慶福 (よしとみ) を強引に将軍の座に据えてしまった(14代将軍徳川家茂(いえもち))。さらにはノブちゃんの応援団を片っ端から捕まえては島送りにしたり死罪にしたりと、とんでもない恐怖政治を始めたのだった(安政の大獄)。ノブちゃん自身も隠居謹慎の処分を受け、いったんは政治生命を絶たれてしまった。

井伊は、諸藩との協力によってではなく、幕府の求心力を強めることで国難に対処しようとしたのだが、しかしそのような強権政治は長続きしなかった。水戸藩の藩士だった者たちが、主家に対する侮辱的な仕打ちに怒り狂い、陰謀をめぐらし、安政7年(1860年)3月、登城中の井伊直弼を江戸城桜田門近くに待ち伏せて襲撃し、その場で討ち果たしたのだった(桜田門外の変)。

もともと徳川幕府は、武門の棟梁として日本国を治めてきた統治機関である。その事実上の最高権力者が白昼、わずか十数人の武装グループに襲われ、首を取られたという事件は、幕府の権威を一気に地に落としてしまった。それ以来、徳川幕府は急に弱々しい存在になってしまい、かつてのように強権を発動し、いばりちらし、力ずくで言うことを聞かせようという気概もなくなってしまった。

かわりに勢いづいたのは、京都の朝廷と、その朝廷に取り入って政権に参加しようという西国の雄藩(薩摩、長州など)である。幕府はそうした勢力の顔色をうかがいながら政治の舵取りをしなければならない時代にはいったのだった。

ノブちゃん表舞台に出る

井伊の独裁政権が終わったあと、ノブちゃんは謹慎をとかれ、文久2年(1862年)の7月から「将軍後見職」となった。朝廷の要望を受け、若い将軍である家茂の代理として幕政を取り仕切ることになったのだ。このときからノブちゃんは歴史の表舞台に登場することになる。 このころ、京都の朝廷では公家が長州藩などの尊王攘夷派にあやつられ、
「はよう、けがらわしい外国人たちを追い払うてたもれ!」
などと、幕府に対して攘夷を実行するよう、強く求めるようになってきていた。 とくに孝明天皇は、歴代の天皇が守り続けてきた美しい瑞穂の国日本を、ケモノのような外人に決して侵されてはならないという思いをつよく持っていたのだった。

朝廷ばかりではない、ほとんどの一般日本人は「攘夷論」にくみしていたといえる。「開国論」など口にしようものなら、誰であろうと命が危なかった。それは幕府とて例外ではない。幕府はいちばん海外の事情に通じているから、すでに国交を結び港を開き貿易をはじめてしまっている今、急に外国を排斥したり攻撃したりなど、とてもできる話ではないことをよく分かっていた。ところが、幕府でさえ開国論を堂々と主張することができず、朝廷や世間を気にして、とりあえず攘夷をめざすふりをしなければならなかった。井伊が勝手にむすんだ通商条約によって諸物価は高騰を続け、民の暮らしは苦しくなり、攘夷を標榜しなければ国内の不満が高まるばかりだったのである。このまま外国人や外国の商品がどんどん日本に入ってきたらこの国はいったいどうなるんだ。人々が大きな不安をいだいたのも無理はない。

だから当初、攘夷思想の本家である水戸藩から出たノブちゃんを、世間の人々は期待の星と仰いでいた。ノブちゃんなら、外国にやたら弱腰で国内の混乱に手をこまねいている幕府を立て直してくれるだろう。

しかし当のノブちゃんの本心は開国派、それも全くの積極的開国派だったといっていい。それは攘夷の不可能を知っていたばかりではない。ノブちゃんは明治後に多才な趣味人としてその本領を発揮するが、とにかく新しもの好きで、外国の文物へのあこがれが非常に強かった。写真に興味を持ち、牛肉や豚肉を食べ、馬具も日用品も積極的に洋風を取り入れた。ナポレオンにあこがれたノブちゃんは早くフランス製の軍服を着て馬にまたがりカッコよく狩場を走りたかったことだろう。
 このときノブちゃんの脳裏にあった将来のイメージは、明治後の文明開化の社会そのもので、その政治のトップにいるのはもちろん自分自身である。仮に戊辰戦争に幕府軍が勝利していたら、大久保利通の代わりに徳川慶喜が明治政府の中心にいただろう。そしてノブちゃんさえその気なら、そうなっていた可能性は十分すぎるほどあったのである。

仮病で窮地を脱す

文久3年(1863年)3月には、孝明天皇の賀茂神社参拝の行事のさい、わざわざ将軍家茂が京都にのぼってそのお供をすることとなった。こんなことは以前なら考えられなかったことである。さらには、石清水八幡宮(京都府八幡市)で、天皇が神に攘夷祈願をし、その場で将軍に節刀を与えるという。節刀とは昔、朝廷が日本の支配者だったころ、遠征に出かける武人に対して授けた刀のことである。 伝統と格式のある節刀の儀式をしてしまったら、もう攘夷をこばむことは難しくなる。そう考えたノブちゃんは、何とかこれを回避しようと頭をフル回転させた。

その結果出てきた答えは、−−「仮病」だった。これぞシンプルでもっとも確実な方法である! 身体の具合が悪いかどうかは本人にしか分からない。怪しいと思われても、仮病の証拠をつかまれることはない。ああ、ボクはなんて頭がいいんだ。

ノブちゃんは、将軍家茂が病気であることにして当日の行列に欠席させ、自分が将軍の身代わりとして参加した。将軍を尊王攘夷派の暗殺団から守るという理由もあった。そして行列が石清水八幡宮の麓に着くと、ノブちゃんは今度は自分自身が急病になったのでとても八幡宮までは登れないと訴えた。あまりに露骨な仮病で、当然のごとく同行の公家からは矢のように督促の使者がやってきたが、ノブちゃんはまったく意に介せず、隙をみて行幸の一団から逃げ出してしまった。とにかくノブちゃんは逃げるときもすばやいのだ。

攘夷命令を軽くいなす

ほどなく、業を煮やした朝廷から、幕府代表のノブちゃんのもとへ「期限を決めて攘夷実行せよ!」との勅令が発せられた。天皇からの命である。これに対し、ノブちゃんは「では5月10日にしましょうか」と宴会の予定を決めるような軽さで勅使に答えた。すでに(文久3年)4月の後半であり、ひと月の猶予もない。どうせ攘夷などできっこないから適当に返事をしたのだ。そして「攘夷の準備がありますゆえ」と言って、将軍を京都に置き去りにしてさっさと江戸に帰ってしまった。

江戸に帰ると、「幕府では誰も本気で攘夷をしようという者はおりません、私は責任をとって将軍後見職を辞めます」という手紙を朝廷に送った。しらじらしい限りではあるが、朝廷は驚きあわて、「いや、そんなこと言わんと、将軍代行の仕事を続けてたもれ!」と慰留してきた。幕府の勢いがなくなりつつあるとはいっても、やはり幕府は日本最大の武力であり、攘夷を行うためには幕府のトップ級であるノブちゃんに辞められては困るのである。

ノブちゃんは内心「フフ、うまくいったぞ」とほくそ笑みながら、ふたたび京都へ向かった。このころは京都が日本の政局の中心となっていた。薩摩、長州といった外様の大藩や、諸国の「憂国の志士」が、攘夷を求める朝廷のお膝元で、自分たちの主張を繰り広げ、せめぎ合う場となっていたのだ。ノブちゃんは将軍の後見職という立場でありながら、自分自身で日本の混乱を収拾するつもりでいた。なにしろ自分ほど頭の切れる人間はいないのだから。


(壇ノ浦砲台跡。朝廷の攘夷命令に対して幕府や諸藩は静観の態度で臨んだが、長州藩のみは幕府が提示した通りの期日に攘夷実行し、外国から手痛い反撃を受けた)

ノブちゃん、会議をぶち壊す

このころ、朝廷では大事件が起きていた。それまで朝廷に取り入って攘夷派公家たちを意のままにあやつってきた長州藩が、突然京都を追い出されたのである。長州藩が好き勝手に朝廷を動かしていることを苦々しく思っていた薩摩藩や会津藩が朝廷の上層部と協力してクーデターを起こしたのだった(八月十八日の政変)。うるさい長州藩が京都からいなくなったことで、ノブちゃんの京都での居心地はだいぶよくなった。

しかし、代わりに今度は薩摩藩が朝廷を牛耳るようになってきた。ノブちゃんは『日本をうまくまとめられるのは頭のいいボクしかいない』と自負していたので、京都で主導権を握ろうとする薩摩藩とは何かとぶつかるようになっていった。

薩摩はすでに薩英戦争(文久3年7月)などを経験して、外国の軍事力を肌で知り、「もはや攘夷など夢のこつごわんど」と、開国路線に舵を転換しつつあり、さらに朝廷に大金をばらまいて、公家たちをドンドン自分たちのほうに引き込もうとしていた。

朝廷は、「いろいろ難しいときであるから、これからは優秀な諸侯が集まって知恵を出し合いなさいよ」と号令し、朝廷の会議に武家の代表も加われるよう、参預会議なるものを設けた。メンバーは、ノブちゃんのほか、島津久光(薩摩藩)、松平春嶽(福井藩)、伊達宗城 (むねなり)(宇和島藩)、山内容堂(土佐藩)らである。この会議はもともと薩摩藩が画策してできたものだから、ノブちゃんが素直に参加するわけがない。すぐに横浜鎖港問題で薩摩藩と対立した。横浜鎖港問題とは…

かねてから、朝廷から幕府へ、(すでに開港していた)横浜を再び閉じよ、という要求があり、これに対して幕府は内心では(アホか、そんなことできるわけねえだろ!)と思いながらも、世論を気にして「幕府だって横浜港を閉じたいと考えてるんですよ」というポーズを見せていた。

しかし孝明天皇の側近の中川宮朝彦親王は、現実には横浜鎖港が難しいことを知りながら、あえて幕府を困らせるため、「帝はすぐにでも横浜を閉鎖してほしいとのご意向である」とノブちゃんに伝えた。これに対してノブちゃんはかるく「ようございますよ、閉じてしんぜましょう」と答えたのだ。しかし無理やりに鎖港を試みれば外国が何をしてくるかわからない。朝廷は外国人がニガテなのだ。

意外な答えにあわてた朝彦親王は、あとで「いや、あの鎖港の話は手違いやったから取消しや」とノブちゃんに言った。 じつはノブちゃんは、こうした公家の言動は、薩摩のやつらが裏で糸を引いているに違いないと見抜いていたのだ。

そこで、ノブちゃんは島津久光のほか松平春嶽、伊達宗城を引き連れて朝彦親王の館へ押しかけ、酒に酔った勢いで、久光に対し(他2人も巻き添えにして)「この天下の大愚物め!」などとさんざん罵ったうえ、朝彦親王に、「愚物(薩摩)を信用してはなりませぬぞ」とくぎを刺したのである。こんなことがあってはまともに会議など続けられるわけがない。というわけで参預会議はほどなく空中分解してしまったのであった。一説にはノブちゃんが薩摩主導の参預会議をぶち壊すためにこんなことをしたのではないかとも言われている。


(ちなみに、NHK大河ドラマ「青天を衝け」の主人公・渋沢栄一が徳川慶喜に出会ったのは、この「罵倒事件」があったとされる時期の少し前である。渋沢は武州の富裕農の家に生まれたが、憂国の志つよく、攘夷倒幕のため高崎城の奪取や横浜の外国人居留地の襲撃を計画するほどの「過激派」だった。その後方針を転換し、日本の未来に真に貢献するにはどうすればよいかを冷静に考えるようになり、江戸で知り合った一橋家家臣・平岡円四郎を通して慶喜に仕官を嘆願し、一橋家に仕えることとなった。渋沢は攘夷・開国といった政治的な主義主張にこだわるよりも、組織の中で着実に地歩を固め実力をつけていくことで理想を実現しようと考えたのである)

ノブちゃん、朝廷に近づく

元治元年(1864年)3月に、ノブちゃんは将軍後見職を辞めて禁裏御守衛総督となった。禁裏とは朝廷のこと。つまりノブちゃんは将軍の代行をする係から朝廷を守る係へと大変身したのだ。むろん一橋家の人間であるから幕府の一員であることには変わりはない。しかしその活動の中心は完全に京都となり、会津藩や桑名藩を子分にして幕府からなかば独立した政治勢力を築こうとしていた(一会桑政権などと呼ばれる)。

「ノブは幕府を見捨てて朝廷に鞍替えした!」 もともとノブちゃんを敵視する人間が多い幕府のなかには、ノブちゃんのことを幕府を裏切った謀反人のごとくに見る者も少なからずいた。そのうち天皇を取り込んで京都に新政権を築き、天下を取ろうとするのではないか?
−−ノブのやつは、さきの将軍継嗣の争いで上様(徳川家茂)に敗れ、ただならぬウラミを抱いているに違いない−− 当時南紀派の人々は今もうたぐっているのだ。 その時点では、現将軍の若い徳川家茂がもうじき亡くなり、ノブちゃんがその跡をついで将軍になろうとは、当然ではあるが誰一人予測できなかったことである。
幕府のウケは決してよくなかったノブちゃんであるが、しかしながら尊皇思想の伝統を持つ水戸家出身のノブちゃんにとっては、朝廷を守護する役目を得たことは純粋に嬉しいことだったに違いない。

同じ年の7月になると長州藩が昔の勢いを取り戻そうとして無理やり京都に出兵して、禁門の変が勃発。これに対して薩摩藩兵が強兵ぶりを発揮して長州軍を撃退したが、ノブちゃんも禁裏御守衛総督として大いに活躍し存在感を高めた。 長州藩はおそれ多くも御所で戦闘を起こしたということで孝明天皇の怒りをかい、朝敵となり、さらに幕府も朝廷の許しを得て長州を征伐することとなった(第一次長州征伐)。

このときもし幕府が長州をコテンパンにやっつけていれば、幕府の威光は再び輝きを取り戻し、その後も日本の政治の中心は徳川家であり続け、ノブちゃんは明治期の大統領として君臨したかもしれない。

長州征伐の失敗で幕府終焉へ向かう

が、しかし、ここでノブちゃんの未来に暗雲をもたらす人物がしゃしゃり出てきた。薩摩の西郷隆盛である。西郷はいまや薩摩藩の実力者であり、幕府軍の参謀役として長州征伐に参加していた。西郷は禁門の変では長州軍を撃退する立役者になったが、内心ではいずれ長州の力を利用するときが来るだろうと考え始めていた。むろん薩摩が幕府を駆逐し、自藩の主導で新しい政府をつくることを期してである。そのためには長州藩が幕府にやられてボロボロになってしまってはいけない。実力はなるべく温存させておいたほうが得策だ。

そして事は西郷のもくろみ通り、長州藩に対して家老その他の首をいくつか差し出すだけ、という甘い処置で実際の戦闘もなく、とりあえず長州攻めは終了した。

敗者の長州は、最初のうちこそ幕府に恭順の姿勢をみせていたが、もともとは筋金入りの尊皇反幕の藩である。吉田松陰に薫陶を受けた藩士の高杉晋作やその子分の伊藤俊輔(博文)らが立ち上がり、幕府に弱腰になっていた藩に平手打ちを加えたのであった(高杉晋作の功山寺挙兵(元治元年(1864年)12月))。これで目が覚めた長州は、再び幕府に反抗的になってくる。

そしてひそかに薩長の間に軍事同盟が結ばれることとなった。長州は文久三年の政変や翌年の禁門の変で薩摩に散々な目に遭い、以来「薩賊会奸」(「会は会津」)などと罵ったりして薩摩を憎みきっていたが、土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎が仲介の労をつくし、ついに仇敵同士が手を握ったのである(慶応2年(1866年)1月、薩長同盟締結)。

ふたたび手のつけられない悪たれの藩に戻った長州はやっぱり懲らしめにゃならん! というわけで、幕府は長州再征(第二次長州征伐)の号令を発したが、今度は諸藩はさっぱり言うことをきかない。まず薩摩は出兵拒否(薩長同盟を結んでいるから当然)、他の藩も「金もないし気が進まんのぅ」とぶつぶつ言って、なかなか足並みが揃わない。

長州再征伐のために将軍家茂が三度目の上洛をしてから1年もたった慶応2年(1866年)の6月になって、ようやく戦端が開かれたが、幕府軍は連戦連敗。最新の武器をもち、よく訓練された士気の高い長州の奇兵隊ら民間出身の兵たちに、やる気のない幕軍は蹴散らされつつあったのであった。

そんな中で長らく大坂城に出馬していた将軍家茂が21歳の若さで脚気のため死去。幕閣らはノブちゃんに家茂の跡をついで15代将軍の位についてくれるように説得した。ノブちゃんは内心では「おぅ、ようやくオレの出番が来たか!」とほくそえんだが、ここでやすやすと将軍位についてしまっては足元を見られてしまう。幕府内にさえ、ノブちゃんに反感をもつ人間は大勢いる。ここは「そんなに皆が言うんなら仕方ないから将軍になってあげよう」というポーズを見せたほうがいい。幕府の屋台骨はもうだいぶ揺らいでいる。後で失敗したときに「だから最初から気が進まなかったんだよ、無理やり薦めたオマエらのせいだ」という言い訳もできるしね。でも徳川家(宗家)の家督だけは早いとこ継いでおこう。何と言っても日本最大の大名は徳川家で、資産も軍事力も断トツにある。将軍という肩書きがなくても、徳川家の惣領でさえあればどうとでもできるんだ。ノブちゃんは頭をぴゅるるんと回転させてそんなことを考えたのだった。

(ノブちゃんが将軍位につくのは、徳川宗家を継いでから3カ月半後のことである)

こうして徳川宗家(将軍家)のトップとなったノブちゃんは、いきなり長州攻めの幕軍を大増強することにし、「皆のもの、一気に長州をぶっつぶすんだ!」と大声で軍を激励した。…が、その意気込みも決意もすぐに消滅してしまった。幕軍の西側の前線基地であった小倉城が落ち、挽回が困難となった報を受けると、突然「もうやーめた!」と諦めてしまったのである。利我が方にあらず、勝てない戦にこだわる必要はない。停戦(事実上の敗戦)である。

だが、この尻切れトンボ的な長州征伐の幕引きで徳川幕府の命運は事実上尽きたと言えるだろう。薩摩藩はもちろん、土佐藩も、そして気後れしながらもこれまでノブちゃんを支えていこうとしていた義理がたい松平春嶽(福井藩)も、姑息なことばかりしている幕府の前途にほぼ見切りをつけてしまった。

これからの時代はもう幕藩体制でやっていくのは無理だから、大名たちの合議制のもとでみんなで話し合って決めていこうよ、という流れになっているのに、ノブちゃんだけがその気運を乱し、諸侯たちの迷惑も顧みず、(親分である幕府に逆らった子分長州を懲らしめるという図式の)長州征伐にこだわったりして幕府中心主義を続けようとしているのである。まるで、その昔自らが断罪されたところの井伊直弼が乗り移ったかのようである。そして井伊と違ってさらに皆にとって恐るべきことは、ノブちゃんが誰もついていけないほど頭の回転もベロの回転も早く、どんな話し合いの場でも自分の独壇場にしてしまえるということだった。

卓越した政治力が墓穴を掘る!?

そうしたノブちゃんの「お山の大将ボクひとり♪」主義が如実に現れたのが、兵庫開港問題である。さきの日米修好通商条約(安政5カ国条約)では、兵庫の開港も約束されていたのだが、兵庫は帝がおわす京都から近いため、朝廷は兵庫開港の勅許を与えなかった。ところが早く通商開始したい外国は、幕府に兵庫の開港を迫った。幕府は「朝廷からまだ勅許が出ないから開港できないんだよ」と言い訳していたが、外国はそれでは承知しない。「では我々は幕府ではなく朝廷と交渉するけど、OK?」と言われると幕府は大変に困るのである。日本の正式な政府は朝廷の方であることを内外に明らかにすることになってしまうからだ。

早くから開国路線に舵を切っていた薩摩藩も、朝廷に対しては、逆に開国のデメリットをあれこれと吹き込み、「幕府に対しては攘夷を命じるのがようございます」とそそのかしていた。朝廷と外国の板挟みにして幕府を苦しめるためである。

しかし、このような薩摩のもくろみもノブちゃんは巧みにかわしていた。慶応2年(1866年)12月にようやく正式に第15代将軍となったノブちゃんは、なんとしても兵庫開港を実現させて外国に幕府の存在感を見せつけ、引き続き幕府主導の政治を続けようとしていた。一方、薩摩はなるべく有力藩を巻き込んだ列藩会議という形で物事を進めようとし、その中で、慶応3年(1867年)5月、京都で四侯会議(メンバーは島津久光、山内容堂、松平春嶽、伊達宗城、それにノブちゃん)が開かれた。

久光は、兵庫開港よりも長州問題の解決が先だなどと言って、開港問題を先延ばしさせようとするなど妨害工作を試みたが、ノブちゃんが巻き起こす華麗な弁舌の嵐に吹き飛ばされ、なすすべもなかった。おまけにノブちゃんは写真技師を呼んで記念撮影会まで開くという余裕、すべてがノブちゃんペースのまま、会議は二条城から御所へ移り、昼夜ぶっ通しの議論の末、ついにノブちゃんは朝廷から兵庫開港の勅許を勝ち取ったのであった。

こうしたノブちゃんの唯我独尊ぶりに怖れおののいたのが、薩長の実力者たちだった。長州の木戸孝允などは「ノブめはぶち手強いっちゃのう。あいつは家康の生まれ変わりかもしれんでよ」と悲痛な声を発した。議論では太刀打ちできない、というのは政敵にとっては恐怖ですらある。このままノブちゃんを放置すれば、諸藩も朝廷も皆あの縦横無尽に動く巨大なベロに巻きとられ呑み込まれてしまうことだろう。

彼らにとって残された道は、ノブちゃんと何とかうまくやっていこうという考えを完全に捨て、敵と決めつけて力ずくでやっつける、つまりは武力で幕府を倒すことだった。そのため、公家の岩倉具視と共謀して、朝廷から薩摩藩と長州藩に「幕府を討て」という命(討幕の密勅)をくだしてもらうことにしたのだ。

大政奉還で逆転をねらう

だがノブちゃんもそうした薩長の怪しい動きは察していた。やつらは時代の流れに乗っていて勢いがある。こりゃあやばいぞ。どうすればいいんだ!? ノブちゃんはまたもやぴゅるるんと頭のコンピュータを高速回転させた。その結果出てきた答えはきわめて大胆な戦略だった。「大政奉還」である。討幕派が動き出す前に幕府が持っている政権を朝廷に返してしまう。そうすれば薩長が幕府を討つという理由、大義名分がなくなってしまうではないか。

実際問題として朝廷は、政権をいきなりポンと返してもらっても困ってしまうから、やっぱり最大の軍事力と経済力を持っている徳川家に頼らざるを得ない。つまり政権(幕府)は消えても実質的には徳川家の天下は続くだろうという魂胆。ああ、ボクはなんて頭がいいんだ!

それにだ。ノブちゃんの頭はこんな計算もしてたかもしれない。

実は、幕府が窮地を脱するために、政権を朝廷に返すというアイデア自体は以前からあり、ノブちゃんも耳にしたことがある。しかし幕府自身の決定でそんなことを言い出すというのでは、自ら敗北を認めるようで何ともカッコがつかないではないか。 だがこのタイミングで土佐藩が改めて「大政奉還をすれば如何でございましょうか」とノブちゃんに進言してきたのである。坂本龍馬がつくった原案が後藤象二郎を通して山内容堂に伝えられ、容堂がノブちゃんに提案したというわけだ。山内家は開祖の山内一豊が家康から土佐一国を与えられたという恩義をずっと抱いており、薩摩や長州に比べるとずっと幕府寄りである。土佐藩山内家は武力討幕には否定的で、なんとか徳川家が安泰ですむような方策として大政奉還を提案したのだ。

いまのノブちゃんにとっては渡りに舟の提言。苦しくなったから降参したという印象は薄まり、もっともらしく「うむ、ここは日本国のためにも土佐藩の願うところを聞き入れてしんぜよう。(幕府にはまだまだ力があるんだけどな、それを忘れちゃ困るヨ)」という上から目線をなんとか保ち、幕府のメンツも多少は立つというものではないか。

そして結果的に、岩倉の裏工作で討幕の密勅が薩長に出されたとちょうど同じ日(慶応3年10月14日)に、ノブちゃんは大政奉還の願いを朝廷に提出し、翌日それが受理されたのであった。


(徳川慶喜が幕臣たちに大政奉還を諮問した二条城)

王政復古の大号令で勝負あり

さて、討幕派の薩長は大政奉還によって、討幕のきっかけを失い、「チキショウ、またしてもノブめにしてやられた」と悔しがった。

大政奉還がなされたことで、日本の政治には新しいシステムが必要となるわけであるが、そこにノブちゃんを参加させてはならない。徳川家主導の時代を続けてはならない!という強い思いから、討幕派はついに奥の手を使った。朝廷のクーデターである。

朝廷から、幕府と仲よしの公家を全部追い出してしまい、ノブちゃんが朝廷に食い込むスキをなくしてしまう。そして討幕派のみでまったく新しい政治システムを作るのである。

時は慶応3年12月9日。薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、それに公家の岩倉具視、この稀代の陰謀家3名が中心となって、武力クーデターを決行し、不要な公家たちを追い出し、天皇を国政のトップとする明治新政府を誕生させたのである。この宣言が王政復古の大号令と呼ばれるもの。もはや幕府も将軍も認めない。徳川家とは永遠にサヨナラである。

幕府側から見れば、政権をねらうテロリストたちが天皇を人質にして朝廷に立てこもったという表現が当たっているだろう。しかし単なるテロ的な仕業と違うのは、世の流れが幕府の時代から明らかに離れつつあったということである。

(そしてこのとき天皇の地位についていたのは、幼い明治天皇であった。先帝の孝明天皇は、ノブちゃんが将軍に就任した直後に急逝し亡き人になっていた。孝明天皇は外国嫌いであり攘夷を強く願われていたものの、世の中の急激な変化は望まれていなかった。世の安定のためには強い幕府であったほうがよいという考えを持っていたのである。幕府とノブちゃんの心強い味方であった孝明天皇が亡くなったのは、ノブちゃんにとっては大きな打撃だった。もし孝明天皇が存命ならば、王政復古のクーデターのような乱暴なやり方は恐らく許されなかっただろう。こうした佐幕的な思想を持っていた孝明天皇は、討幕派にとって障害とみなされ、毒殺されたのではないかという説も根強い)

さすがにノブちゃんはこの時点で勝負あったと観念したのではなかろうか。天皇を手中にし味方につけなければどんなに軍事的に幅をきかせても天下人にはなれない、世に受け入れられないというのがこの国の古来からの掟である。とりわけ尊皇思想の水戸家で育まれたノブちゃんは逆賊、朝敵の汚名を着て後世の教科書に載せられることだけは避けたかっただろう。自分が天下を取れればいちばんいい、しかしそれが叶わないときは、悪あがきはすまい。

たしかに現時点では、薩長らの兵力は幕軍全体に比べれば小規模であり、京都御所を占拠して勝手に新政府などと表明しているだけである。何かの拍子で向こうが逆賊となることも十分あり得る。

しかし彼らの政治能力はまったく侮れない。人心も幕府から離れようとしている。もし幕軍が総力をあげて新政府勢と戦おうとすれば、ああなってこうなって…、日本はまっぷたつに分かれて激しい内戦となり、外国が介入し日本の独立は侵され、…日本が滅びれば、その戦犯の第一として自分が非難され…やっぱりだめだ。力比べになるならその前に投了だ。ああ、ボクは頭がよすぎて先が見えすぎる!

ついに武力衝突へ

「新政府」が王政復古を宣言してからというもの、ノブちゃんの言動は以前のような勢いも元気もなくなり、歴史の大河の中に身を任せる石コロのごとくになっていった。

最初に新政府がノブちゃんに命じたのは「辞官納地」である。ノブちゃんの官位(「内大臣」という朝廷から授与された身分)と領地(400万石の徳川直轄地)を全部取り上げるという"天皇からの命"である。超大企業の社長からいきなりその地位・肩書きと給料をすべて奪って「ただの人」にしてしまうという厳しい命だったが、これは新政府のメンバーとなった親幕府派の諸侯たちが「それはあまりにひどい仕打ちでござろう」と文句をつけたため、処分がどんどん甘くなってしまった。

それと同時に、義理がたい会津兵を初めとして旧幕府に仕えていた武士たちの憤激は急速に高まった。「君辱めらるれば臣死す」である。主君のために生きるのがサムライである。ここで動かなければサムライの魂はどうなる! 武士として生きてきた甲斐がないではないか。

しかしひとり冷静なノブちゃんは、新政府側のやり口に怒り狂う家臣たちが暴発するのを避けるため、京都を撤退し大坂にくだった。朝廷を握っていない者が京都で騒ぎを起こせばかつての長州藩の二の舞になりかねない。ここは難攻不落の大坂城を本拠地として、とりあえずは機を待った方がいい。もしかすると何かラッキーなことが起こって、この絶体絶命の状況を逆転できるかもしれない。

一方、新政府のほうはノブちゃんの政治力、外交力を怖れていた。あの弁舌が健やかである限り、旧幕府側はいつ盛り返してくるかわからない。西郷隆盛は、「こんままではいかぬ。ノブどんのベロを封じるにはもはや実力行使しかあいもはん!」と立ち上がった。新しい時代を開くためには、もう旧幕府勢を武力で徹底的に打ち砕くしか方法はないと考えたのだ。そのためにはどんな手荒な手段を使ってもやむを得ない。

西郷は、江戸にいる薩摩の同志に命じて江戸の町を荒らし回らせた。藩ぐるみでのテロの実行である。激怒した幕府側は江戸薩摩藩邸を取り囲み、攻め込んで焼き討ちにしてしまった。これでもう戦争の既成事実ができてしまったことになる。

江戸で乱暴狼藉をはたらいた薩摩の者どもを懲らしめて屋敷を焼き払った。この報が大坂に伝わると、幕軍の将兵たちの怒りと興奮は頂点に達し、もはやノブちゃんも彼らの暴発を押しとどめることはできなくなった。こうして西郷の挑発作戦が成功し、大坂から京都へ向けて進発を開始した旧幕府軍と新政府側の軍が、京都郊外の鳥羽街道で激突した。鳥羽伏見の戦い(慶応4年1月)が始まったのだ。

幕府軍は数ではまさっていたが、先発した諸隊は近代的な装備の薩長軍に手痛い敗北を喫した。さらに岩倉が急ごしらえで作らせた「錦の御旗」が薩長軍の陣頭に掲げられ、自分たちが「官軍」となったことをアピールした。それを見た旧幕軍は「我々は賊軍になってしまった!」と一気に戦意を喪失、旧幕側から新政府側へ寝返る藩も相次ぎ、旧幕軍兵士たちはあちこちで敗北を重ね、つぎつぎと大坂に逃げ帰ってきた。

この状況に、ノブちゃんの頭脳コンピュータは完全にねじ切れ、「こりゃもう本当にだめだァ」とギブアップを決めてしまった。そしてまだ戦力が十分残っているのにもかかわらず、そして戦闘も続いているのにもかかわらず、わずかな供回りを連れてさっさと大坂城を脱出、幕府軍艦開陽に乗って江戸に逃げ帰ってしまったのである。

家来を見捨ててひとり前線から逃げ出して江戸城に帰ってきたノブちゃんに、家来たちは驚き呆れ嘆き憤りなどさまざまな感情を内に沸き立たせたが、小栗忠順(おぐりただまさ)らの主戦派は「ノブ様、こうなれば幕府の名誉をかけて断固最後まで戦いましょう!」と言い張り、気勢を上げていた。実際、幕府陸海軍の精鋭はまだまだ健在で、その気になれば東海道を東進する新政府軍を壊滅させることも可能と思われた。しかしノブちゃんはそうした徹底抗戦派の主張を無視して、ひたすら新政府への恭順を決め込んだのだった。

やがて新政府軍が江戸に近づいてくると、ノブちゃんは勝海舟を交渉役に任じた。そして江戸城総攻撃の前に、勝と西郷隆盛との会見で江戸城無血開城が決まったのだった。

そのおかげで江戸の町は戦火に焼かれることは避けられたが、ノブちゃんがひとり謹慎しているあいだに、旧幕軍と新政府軍は激しく戦い、戦いは北へと移動し、会津藩は幕府軍に代わって死闘を演じたあげくに降伏し、さらに戦線は箱館まで北上し、五稜郭の戦いをもって旧幕府側は完全に降伏。鳥羽伏見に始まった戊辰戦争がここで終了したのだった(明治2年5月)。


(西郷隆盛と勝海舟が会見を開いた地)

ノブちゃん優雅に暮らす

その間ノブちゃんは江戸から水戸へ、そして駿府(静岡)へ移住した。かつて幕府に仕えあるいは幕軍として命をかけて戦った家臣たちにしてみれば、ノブちゃんに対しては徳川幕府最後の将軍として、戦死した家臣たちの菩提を弔うため出家でもするか、あるいは潔く腹を切るかなどしてもらいたかったに違いない。

しかし、もとよりそんな封建的な常識にしばられるノブちゃんでなかったことは言うまでもない。

ノブちゃんは切腹どころか、隠居手当という年金をたっぷりもらいつつ、写真や油絵、刺繍、狩猟などの趣味に夢中になり、静岡の町をサイクリングして楽しんだ。こうした優雅で気ままなノブちゃんの暮らしぶりを憤慨と落胆に満ちた目で眺めていた旧幕臣も少なからずいた。当然である。自分たちは幕府のために命をかけて戦い、家族や知己や財産を失い、窮乏の生活に甘んじているというのに。

しかしノブちゃんが日本の近代化のために果たした功績は決して小さくはなかった。もし巧みな政治力に加えて、木戸孝允が言及したような、家康のごとき闘争精神を発揮し、薩長を中心とした新政府の誕生を阻止していたら、その後も日本は長らく幕府の時代が続いていたことだろう。現代も東京の真ん中にあるのは皇居ではなく、依然として徳川将軍の政治堂かもしれない。

ただノブちゃんがどんなに政治を改革しても徳川家が政治の中心に残るかぎり、近代化は間違いなく遅れただろう。当時の世界情勢を考えれば、植民地化あるいは半植民地化の道をたどった可能性は十分にある。

ノブちゃんの幕末における行動はいまだに批判の的になるが、幕末のギリギリの場面で、独自の予想と計算のもとに、勝てる(可能性のある)戦に早々と見切りをつけ、幕藩時代に幕を降ろし、結果的に革命の犠牲を最小限に抑えた。ノブちゃんの生き様と引き換えに、徳川幕府自身が「切腹」して武士の時代を終焉させるという筋目を通すことになった。そして明治維新後に欧米列強に肩を並べるくらいの「強国」へと日本を押し上げる道に政治の流れをつなげられたことには、ノブちゃんの選択が大いに奏効しているといえるだろう。やはりノブちゃんの頭脳コンピュータは並外れた能力を持っていたのである。

そのノブちゃんは維新の日も遠くなった明治30年、ようやく61歳のときに長年住み慣れた静岡から東京に戻り、大正2年、77歳でその生涯を閉じたのだった。


(谷中墓地にある徳川慶喜墓所)


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