幕末トラベラーズ

幕末STORY

幕末の志士たちが、それぞれの道を旅した幕末という時代はどういう時代だったのか、幕末の政局を中心にまとめてみました。もっと手軽に面白く幕末STORYを楽しみたい方は、「気まぐれ人物伝」を拾い読みしてみてください。

ペリー上陸記念碑(横須賀市)
@ ペリー来航で幕府の権威が弱体化

嘉永6年(1853年)6月、アメリカ海軍のマシュー・ペリー提督率いる艦隊が浦賀沖に来航し、日本に対して開国と通商を求めました。アメリカの軍事力を怖れた幕府は翌年、日米和親条約を締結して開国に踏み切りましたが、この重大な国事の決定に際して幕府が慣例を破り、天下の上下に公論を募ったことで、朝廷や諸大名に幕政への介入を許す契機を与え、幕府の権威が相対的に弱体化する要因をつくってしまいました。

安政5年に大老に就任した井伊直弼 (いいなおすけ)は幕威回復を目指し、将軍継嗣問題で自らの政策に反対する一橋派や反幕的な勢力に対して大弾圧を加えましたが(安政の大獄)、このため強い怨恨を買い、処断された徳川斉昭の元家臣らによって江戸城桜田門外において暗殺されてしまいました。

ここに天下の公儀たる幕府が絶対権力をもって国内を統治する時代は終焉を迎え、以後江戸幕府は、朝廷や有力諸侯たちの中でパワーバランスを見極めつつ、既定路線となった開国政策と国内の攘夷論との板挟みに苦慮しながら、政権の延命を模索することになります。

A 朝廷の権威が増大

いっぽう、和親・通商の条約締結以降、朝廷の権威と発言力は次第に大きくなっていきました。その政治経済基盤を支えたのが、尊皇攘夷を掲げ、反幕的な姿勢を強めていた長州藩でした。

長州藩では桂小五郎久坂玄瑞 (くさかげんずい)らの吉田松陰門下生らが藩政を左右し、宮廷工作によって朝廷を動かして勅命を濫発させ、ついには攘夷誓約のために将軍家茂を上京させるまでに至りました。

しかしこうした尊皇攘夷一辺倒の長州藩の独走に対して反感を強めていた朝廷の反長州派や公武合体派の薩摩藩、会津藩が結束して、文久3年(1863年)に八月十八日の政変を起こし、長州勢力は京都から排除されてしまいました。

B 薩摩藩の台頭

長州藩に代わって京都政界で存在感を増していったのが薩摩藩です。薩摩藩は島津斉彬 (しまづなりあきら)の開明政策によって早くから独自の近代化路線を進み、斉彬の薫陶を受けた西郷隆盛大久保利通らが藩の事実上のトップである島津久光を支え、従来の幕藩体制に代わる新たな公議政体を目指していました。公儀政体とは政権運営に議会制度を取り入れるということです。

こうした明確な改革意欲をもつ薩摩藩の周辺には、中立的な改革派である越前福井藩・松平春嶽(しゅんがく)、宇和島藩・伊達宗城(むねなり)、大身の外様藩ながらやや幕府寄りの土佐藩・山内容堂らがありました。

対する幕府側は、将軍後見職に就いた一橋慶喜が文久3年の将軍上洛に先立って京へのぼり、慶喜を補佐する会津藩・松平容保 (かたもり)、桑名藩・松平定敬(さだあき)とともに「一会桑政権」を形成して、京都政界での実権を握ろうとしました。

幕末における政局の変転は、島津久光を擁した西郷、大久保の薩摩勢対徳川慶喜の対決がその主軸であったといえるでしょう。

C 幕府と諸藩のかけひき

諸外国との通商開始以降、国内外の情勢が激変し、幕府の命運が怪しくなってくると、従来の幕府と諸藩の関係は様変わりして、政策よりも政局を優先する力学がはたらき、虚々実々の駆け引きが横行するようになっていきました。これを象徴する議論が横浜鎖港問題でした。

京都朝廷のもとでは、長州に代わる政治運営主体として、一橋慶喜、島津久光、山内容堂、松平春嶽らを中心とする参預会議が文久3年(1863年)末に発足しました。ところが横浜鎖港問題をめぐって一橋慶喜と島津久光が激突し、参預会議は3カ月足らずで崩壊してしまいました。

横浜鎖港は幕府が朝廷に誓約させられた破約攘夷の対象となっていた課題でしたが、外国との通商が始まって久しい当時、一旦開港した横浜港を再び閉ざすことは非現実的とみなされ、薩英戦争の経験から攘夷の不可を悟った薩摩藩はもとより、慶喜も当初は鎖港には反対だったのです。しかし、薩摩が朝廷との結びつきを深めることを警戒した慶喜はあえて横浜鎖港を強硬に主張することで久光の立場を無くし、会議を分裂に追い込んだのでした。すでに開国か攘夷かという議論は政局の材料となっていたのです。

D 薩長同盟〜幕府の敗北

このころから薩摩藩は幕府から距離を置き、従来の公武合体と幕政改革を基にした路線を見直し、他の雄藩との連携を重視するようになります。たとえば元治元年(1864年)7月の禁門の変で長州藩が朝敵となり、その後長州征伐(第一次)の命が発せられたとき、征長軍参謀に任ぜられた薩摩の西郷隆盛は、禁門の変で敵として戦った長州に対して寛大な処分を主張しています。このことは長州の存在を薩摩藩の将来の戦略の中に取り込もうとの思惑が透けたものといえるでしょう。

このころ薩摩藩と長州藩は表面上は犬猿の仲というべきものでしたが、水面下では土佐藩の中岡慎太郎坂本龍馬、英国公使のパークスや長崎商人のグラバーらの仲介や提言もあって、徐々に和睦の空気が高まっていき、慶応2年1月には密かに幕府を仮想敵とした薩長同盟が結ばれるに至ったのでした。

慶応2年6月に開始された長州征伐(第二次)では、同盟に基づいて薩摩藩は出兵を拒否し、一方事前に薩摩名義で購入した武器を装備した長州軍は幕軍を各地で撃破し、幕府は敗勢のまま停戦を余儀なくされました。

E 武力討伐への道

慶応3年5月、薩摩藩は京都政局の主導権を握るべく四侯会議を開催しました。そして兵庫開港問題で再び島津久光は将軍徳川慶喜と衝突しました。

兵庫については幕府が英国等四カ国に勅許なく約した開港期限が近づいていましたが、朝廷は先帝(孝明天皇)の意にそむくとして拒否の態度を貫いており、薩摩藩も幕府を窮地に陥れるため開港反対を主張しました。ところが徳川慶喜は徹夜で会議を続行させて、強引に勅許をもぎ取ったのです。開鎖の立場は先の参預会議と逆となったのですが、今回もまた慶喜に諸侯連合である四侯会議を破綻させられる結果となり、薩摩藩はもはや公議政体を前提としたままでの局面打開をあきらめ、武力討幕を決意するに至ったのでした。

一方、土佐藩山内豊信は、薩摩藩等の討幕が現実味を帯びてくると、徳川家の地位領土保全を期して慶喜に大政奉還を建白しました。討幕派では、公家岩倉具視が慶応3年10月14日に薩長両藩に「討幕の密勅」を下しましたが、同日徳川慶喜が大政奉還の上表を朝廷に提出したため討幕の名目を失い、一時待機を余儀なくされました。

F 名実共に幕府が終焉

しかし12月9日になって薩摩藩は他四藩と共に軍事力をもって朝廷から親幕府派の公家を排除し、王政復古の大号令を発して新政府の樹立を宣言しました。そして新たに設けられた総裁・議定・参与の三職のもとに同日行われた小御所会議にて徳川慶喜の辞官納地が決定しました。しかし、討幕に反対する山内豊信や松平慶永らが穏便な処置を主張し、慶喜の処分問題は空洞化されつつありました。

この事態に危機感を覚えた薩摩藩は、江戸市中で騒擾を起こして幕府側を挑発し軍事行動に持ち込むことに成功、幕末の政局はここに幕を降ろし、鳥羽伏見の戦いから開始された戊辰戦争が明治2年5月に箱館で終結し、徳川幕府の時代は名実共に終焉を迎えたのです。

●参考文献
藤井譲治・伊藤之雄編著『日本の歴史 近世・近現代編』ミネルヴァ書房、2010年
井上勝生著『幕末・維新』岩波書店、2006年