流山の史跡
矢河原の渡し跡
(やっからのわたしあと)
矢河原の渡し跡
官軍に包囲された流山の新選組は抗戦するのをあきらめた。近藤勇は全軍の責任をとって潔く自刃しようとしたが、土方がそれをとめた。−−ここで死ねば犬死にとなってしまう。このとき近藤は「大久保大和」と名乗っており、官軍に身元を知られずに釈放される可能性もある。新選組は表向き「鎮撫隊」を称しており、官軍に敵対する者ではなく幕府から各地の治安・秩序を維持することを命ぜられた部隊であることを主張していたから、何とか切り抜けられると土方は考えたのである。近藤も土方の思いをくみ、官軍に出頭することにした。
近藤が官軍に連行されるとすぐに土方は江戸の勝海舟を訪ね、近藤の救出を依頼し勝も了解したが、結局は失敗に終わった。官軍のなかに近藤の顔を知る者がおり、大久保大和とはじつは新選組局長・近藤勇であることが露見してしまったのだった。近藤の処遇については官軍のなかでも意見が複数あったが、坂本龍馬の暗殺犯として新選組を疑い怨んでいた土佐藩士の主張により慶応4年(1868年)4月25日、板橋刑場で斬首された。
PHOTO
(官軍に出頭した近藤勇は連行され、矢河原の渡しで江戸川を渡った)
(矢河原の渡しがある場所は加村(駿河国田中藩本多家飛地)であり、流山村(天領)の北にあった)
(上流側に向かって。渡し跡の標識は右の手すりの傍にある)
(下流方面。建設中の東京スカイツリーが彼方に見える)
史跡マップ
