〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代(幕末)

(にちべいわしんじょうやく)
日米和親条約ってなんのこと?

(画像出典:https://www.ac-illust.com/)

日米和親条約は、1854年(嘉永7年)に日本(江戸幕府)とアメリカ合衆国の間で結ばれた条約。両国の友好をうたい、日本は下田箱館の2港をアメリカに対して開いた。これによって日本は開国し「鎖国体制」が終わることとなった。

ペリー浦賀に現る!

アメリカ海軍の軍人ペリーは、1853年(嘉永6年6月3日)4隻の軍艦を率いて浦賀(現・横須賀市)にやってきました。そして日本に対して「国を閉ざして引きこもるのはやめて、もういいかげん開国しなさいよ!」というアメリカ大統領からの手紙を押しつけて去っていきました。

翌1854年(嘉永7年1月16日)、ペリーは再び日本に来航します。こんどは9隻の軍艦を背景に軍事的圧力をかけ、つよく開国をせまりました。アヘン戦争で中国(清)がイギリスに負け、欧米の植民地のようになりつつあるという現実もあったことから、やむをえず幕府はアメリカの要求を入れ、鎖国をといて開国することにしました。このときアメリカとの間で結ばれた条約が「日米和親条約」です(神奈川条約ともいいます)。

なぜアメリカは日本を開国させたかったのか。それはアメリカが中国との貿易拡大のために太平洋を横断する航路を開拓していたから。そして当時は捕鯨がさかんで、捕鯨船が北太平洋に展開していたから。つまりアメリカ船がたくさん太平洋で活動するようになったため、物資を補給したり悪天候・遭難・船の故障のときの避難港としてぜひとも日本の港を利用したかったからです。
アメリカで捕鯨がさかんだったとは意外ですが、当時は機械油や燃料にするために鯨油を使っていたんですね。

(ペリーの来航について詳しくは、黒船来航ってなんのこと?ペリー上陸記念碑(関東の史跡)を見てくださいね。)

日米和親条約の内容

さて、日米和親条約では、おもに次のようなことがらが決められました。(全12条)

1.日本とアメリカは永久に友好を結ぶ。

2.日本は下田と箱館の2港を開く。(下田は伊豆半島の南端。箱館は北海道の南端(=函館))

3.石炭、薪水や食糧などの物資をアメリカに提供する。(これら物資の代金はアメリカが金銀貨で支払う)

4.遭難船や乗組員の救助を行う。

5.日本はアメリカを最恵国待遇とする(しかも片務的最恵国待遇である)。

6.(必要であれば)アメリカは下田に領事を置くことができる。

要注意ポイント「最恵国待遇」と「領事」

上にあげた条約の内容についてですが、5.のアメリカに対する「最恵国待遇(さいけいこくたいぐう)ということの意味は、アメリカと条約を結んだ後で他の国と条約を結んだとき、アメリカとの条約よりも有利な条件があれば、それを自動的にアメリカとの条約にも適用させるということです。

たとえば、日本は日米和親条約締結のあと、これと同様の条約をイギリスとも結びました。ついでロシアのプチャーチンと結んだ日露和親条約では、ロシアに対して下田、箱館に加え、長崎を開くことも決められました。これはアメリカやイギリスに対しての条約より有利ですから、最恵国待遇条項によりアメリカ・イギリスに対しても下田、箱館、長崎の3港が開かれることとなったんですね。
(また、片務的 (へんむてき)最恵国待遇というのは、日本がアメリカを一方的に最恵国待遇とすることです。アメリカ側では日本を最恵国待遇にしていませんでした。つまりこれは不平等な条約ということになりますね。日本は後進国と見られていましたから、こんな理不尽も涙をのんで受け入れなくてはならなかったのです)

そして重要なのは、6.の「領事」を置くことができるという項目です。領事というのは政府から外国に派遣された外交官で、その国に駐在して自国民のために仕事や生活に関するいろんな世話や手助けをする人です。

この条項があったために、1856年(安政3年)にタウンゼント・ハリスが下田にやってきて領事として滞在することになります。そして粘り強く幕府と交渉を続けて「日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)を日本と結ぶことになるんですね。ハリスはペリーと違って文官であり、自身は軍事力を持っていませんが、じつはペリー以上に手強いアメリカ人だったともいえます。

この後に結ばれた「日米修好通商条約」が幕末の始まり

日米和親条約によって日本は開国しました。しかしこれで日本の社会が大きく変わったというわけではありません。この条約はアメリカの船を2つの港に限って寄港を許し、補給などの最低限の対応を行うもので、アメリカ人が日本に住みついたり、日本国内を移動したり(開港場の近辺を除く)、あるいは貿易をしたりすることは認められていませんでした。

したがって、外国人を毛嫌いしていた朝廷でも、この日米和親条約に対しては大きな反対があったわけではありません。
本格的な攘夷運動(じょういうんどう)(=外国人排斥運動)や倒幕運動が盛んになったのは、1858年(安政5年)に結ばれた「日米修好通商条約」によって本格的に国同士の付き合いが始まり、自由貿易が始まり、日本国内が経済的にも社会的にも大混乱におちいったことが原因なんですね。

もうちょっと詳しく…

日米和親条約の「大誤訳」!

1856年(安政3年7月21日)に、ハリスは軍艦に乗って急に下田にやってきました。そして下田奉行・井上清直(きよなお)にあいさつをしました。

ハリス「やあ、こんちは。アメリカ領事としてここに住むことになったハリスです。どうぞよろしく!」

井上「え!? 何ですって! 日米和親条約ではアメリカ人は日本に住むことは許されていませんぞ! 早く立ち去ってください!」

ハリス「おや、日米和親条約をよくご存じないとみえるね。第11条を読みたまえ。『日米両政府のどちらか一方が必要と認めた場合、条約調印の日から18ヶ月以降なら、アメリカは下田に領事を置くことができる』とある。もう条約調印から18ヶ月たっているし、アメリカ政府が必要と認めたんだから、下田に領事を置けるんだよね。その領事がワシだ!」

井上「え!? 何だって! 日本側の条約文では『日米両政府が必要と認めた場合、条約調印の日から18ヶ月たてば、アメリカは下田に領事を置くことができる』となっているぞ。日本とアメリカの両方が認めないと領事は置けないんじゃないか。日本の政府は領事なんか必要としてないんだよ」

ハリス「そんなこたあ知らんね。とにかくワシはきちんと条約に基づいてここに来たのだ。おおかたそっちの条約文は翻訳を間違ったんだろう」


というわけで、この極めて重大な箇所で日本文と英文の意味が違ったまま条約を交わしていたのです! こんなことは普通は考えられないことで、何かの事情で意図的にそうせざるを得なかったのかもしれませんし、条約文の作成時にアメリカ側が条約文が違う意味になるようにひそかに仕向けたのかもしれません。

ハリスは事前に何の通告もなく、突然下田に来てそのまま領事として居座り、幕府に対して通商条約を結ぶように迫ります。下田着任という既成事実を強引に作ってしまう点からして、なんとしてでも日本と通商条約を結んで貿易を始めるのだ!というものすごい意思をもっていたことがわかりますね。

【参考文献】

・笠原一男著『日本史研究』山川出版社、1997年