〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(てんぽうのかいかく)
天保の改革ってなんのこと?

(画像出典:https://www.photo-ac.com/)

天保の改革:天保12年(1841年)〜天保14年(1843年)

天保の改革は、老中・水野忠邦(みずのただくに)が主導した幕政改革で、江戸の三大改革(享保の改革、天保の改革、天保の改革)のひとつ。財政再建、物価の安定、風紀是正などの政策を進めたが、激しい反対にあって頓挫した。

大失敗の改革

天保の改革が行われたそもそもの原因は、11代将軍・徳川家斉のゼイタク三昧の生活にあったといってもいい。

11代将軍・徳川家斉(いえなり) はとにかくゼイタク大好き人間だった。そのうえ側室を40人もかかえ、生まれた子供は55人にもなったという。こんな人が50年も将軍をやっていたのだから(源頼朝以降のあらゆる幕府将軍の中で最長の在位だ)、幕府の支出はハンパない。財政はどんどん悪化していった

しかもこのころ、ロシアなどの外国船が日本近海をウロウロし始め、海防の面でも何かと費用が必要となってきたのだ。

そんなところへ天保の大飢饉が襲いかかって、餓死したり逃亡したりする農民は数知れず、米価をはじめ諸物価が急騰。百姓一揆、打ちこわし騒ぎ、また大塩平八郎の乱など、おかみに公然と反旗をひるがえす事件なども起きて、社会不安はとてつもなく大きくなっていた。

老中・水野忠邦は、このように問題が山積している世の中の現状をまえに、「こうなったのは武士も町人も精神がたるんどるからじゃ! ワシがカツを入れて問題を一気に解決してやるわ!」と、たいへんな意気込みだったが、ゼイタクでHな将軍家斉は隠居して将軍職を子の家慶(12代将軍)にゆずってもなお、大御所として政権を握りつづけ、なかなか改革を進めることができない。
天保12年(1841年)にようやく家斉が亡くなったとき、将軍家慶は可愛がっている水野忠邦に対し「やっとうるさいオヤジ殿が消えてくれた。よし水野よ早速大改革に取りかかるのだ!」 「ははっ、仰せの通りに!」と、ようやく水野忠邦が腕をふるうときがやってきたのだった。

ところが、満を持して始めたはずの水野の政治改革は、残念ながらそのほとんどが失敗に終わってしまった

その原因は、あまりに実情を無視した強引な政策にあった。これに比べると田沼政治のあとに登場し、当時庶民から厳しいよなぁと批判された松平定信の寛政の改革などは、なんのこれしきゼンゼン民に優しい改革といってもいい。それに、寛政の改革で始まった飢饉対策のおかげで、天保の大飢饉の被害が相当程度救われたといわれている。享保の改革、寛政の改革はある程度うまくいった面もあるが、天保の改革はほとんどこれといった結果を出せずに終わった。

民衆から恨まれ、旗本や大名から非難を浴び、幕府の役人からもソッポを向かれた水野忠邦。彼が老中をやめたとき、江戸の庶民ら数千人が集まって水野の屋敷に石を投げつけた。北町奉行鍋島内匠(たくみ)は彼らを逮捕したもののその罪は問わず、「火事と聞いて駆けつけたとは殊勝である」などと褒め、全員を無罪放免としたという。

天保の改革の内容

そんな水野忠邦が行った天保の改革とはなにか。かんたんにまとめよう。

ぜいたくの禁止・倹約・風俗の取り締まり

・享保の改革、寛政の改革に比べ、さらに厳しくぜいたく品の禁止・徹底的な倹約を江戸城内にも庶民にも命じた。歌舞伎や寄席は町はずれに移転させたりつぶしたりし、衣服・くし・かんざしなどの販売に制限を加え、高価な料理や菓子を禁止した。(水野自身も質素倹約につとめ、老中筆頭でありながらつねに綿の服を着ていた。) こうした厳しい締め付けのために江戸の町々は火が消えたように寂しくなり、逆に庶民の不満はふつふつと沸き立っていったのだ。

・歌舞伎役者の給金に制限を加え、人気の七代目市川団十郎は贅沢品を揃えているかどで追放刑とした。また 人情本作家の為永春水 (ためながしゅんすい)を処罰した。

株仲間の解散

・水野忠邦は物価が上がる原因は、十組問屋などの株仲間があるせいで新規の商人が活動できず、十分な量の物資が流通しないためだと考えた。そこで株仲間を解散する命令を出したのだが、そのためにそれまでの流通システムが機能不全となりさらに物価が上がるなどした。完全に逆効果となってしまったのだ。

人返し令

・天保の飢饉のため、田畑を捨てて江戸に流れ込んだ農民らを強制的にもとの故郷に追い返した。もちろん元の住み処に戻って耕作させ年貢を納めさせるためだ。これと同様の施策が寛政の改革のときに行われた(旧里帰農令)が、結局どちらも効果はあまりなかった。それどころか江戸を追い出された流民が無宿人や無頼の徒となり、江戸周辺で治安が悪化することにつながった。

上知令(あげちれい/じょうちれい)

・この法度を出したのが命取りとなって水野は老中をクビになった。上知令とは江戸の周辺十里四方(現在の東京23区の3倍近い面積)の内側にある大名・旗本の土地すべてを幕府が取り上げ、その代わりに別のところにある幕府の領地を与えるというものだ(大坂にも同様の命を出した)。大名や旗本領のほうが幕府領よりも年貢率が高いので、幕府にとっては得になる。また、江戸や大坂の中心部を幕府領にすることは外国の脅威が近づきつつあった当時、国防上の意味もあった。しかし大名や旗本たちは減収になるから大反対したし、老中からも反対の声があがり、結局上知令は撤回された

その他の失敗

・田沼政権のときに未完成に終わった印旛沼の干拓工事を再開したが、水野の失脚でまたもや中止となった。また、川越藩・庄内藩・越後長岡藩を互いに転封する命令(三方領地替)は領民の反対などで撤回。さらに幕府権威の復活をねらった日光社参は改革の精神に逆らう大出費に終わり、幕府の失政・失権がめだつ結果となった。