〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(てんめいのだいききん)
天明の大飢饉ってなんのこと?

(画像出典:https://www.photo-ac.com/)

天明の大飢饉:天明2年(1782年)〜天明8年(1788年)

天明の大飢饉は、天明年間に東日本を中心に発生した、江戸時代最悪と言われた飢饉のこと。

解説

江戸時代には飢饉が多く、全国で120〜130回をかぞえたといわれますが、そのなかで三大飢饉といえば、享保の飢饉(1732年)、天明の飢饉(1782年〜)、天保の飢饉(1833年〜)です。享保の飢饉は西日本中心だったのに対し、天明・天保の飢饉は全国的な規模でした。なかでももっとも深刻な被害だったのが天明の大飢饉でした。

東日本では天明2年(1782年)から天候不順がすすんでいましたが、翌天明3年になって冷害、長雨、洪水がつづき、春から晴天の日がほとんどなく、夏でも冬の着物が必要なほどの寒さだったといいます。さらに天明3年7月には浅間山の大噴火による降灰で田畑が埋まって被害が拡大しました。

とりわけ北関東、東北地方が悲惨でした。盛岡藩(南部藩)では全人口35万人のうち餓死者、病死者が6万人以上、弘前藩では10数万人以上も出たとされます。ひどいところでは犬、猫はもちろん餓死者の人肉までも、食べられるものをすべて食べ尽くしてもなお餓死する者が相次ぎ、道端には行き倒れた者の遺骸や骨が累々と重なっていたといわれています。

天明3年の米の収穫は、石高59万石の仙台藩がたった2万5000石しかとれず、25万石の盛岡藩は6万石余りしかとれず、24万石の弘前藩にいたってはなんと収穫高ゼロでした。このことからもいかにすさまじい飢饉であったかがわかりますね。

ちょっと詳しく…

こうした悲惨きわまりない飢饉の原因はもちろん第一には自然災害ということなのですが、幕府や藩の政策にも問題がありました。

当時、飢饉におそわれた藩があっても周囲の藩がそれを援助することはなく、多くは自藩の食糧を守るため、津留 (つどめ) という物資の流出をふせぐ措置をとっていたのです。 また、もともと東北地方の気候は米の栽培には向いていなかったため、米以外の作物もつくられていましたが、江戸期に米の増産を強いられて水田の割合をふやした結果、天候不順がすぐに飢饉をまねく体質となっていました。またふだんから食糧を備蓄する余裕がなかったことも要因としてあげられるでしょう。

飢饉につづいて疫病も流行し、全国で90万人以上が死亡したといわれます。避難民が農村から江戸へ流れ込んで治安が悪化し、江戸や大坂で米屋、商家の打ちこわしが起こり、騒動は全国にひろがりました。こうしたなかで富裕商人を厚遇していた田沼意次は批判をあびて失脚し、寛政の改革が開始されたのでした。