〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(あらいはくせきのしょうとくのち)
新井白石の正徳の治ってなんのこと?

AraiHakuseki
(画像出典:Licensed under PublicDomain via WikimediaCommons)

正徳の治は、儒学者の新井白石によって、6代将軍・家宣、7代将軍・家継の時代に行われた政治改革。1709年から1716年までの約7年間。おもに正徳の時代に行われたのでこの名がついている。正徳は享保のひとつ前の年号。

理想を追い求める男・新井白石

江戸幕府というのは一種気まぐれな「文武両道」政府で、大名や領民たちをひっぱたいたりシゴいたりするのが得意な体育会系の将軍もいれば、学問(とくに儒学)をもとにして世を治める文化系の政治の時代もある。

大まかにいえば、初代家康から3代家光までは体育会系。4代家綱から文化系がはやりだし、5代綱吉、6代家宣、7代家継の時代まで文化系が優勢となった。いわゆる文治政治の時期。
その中で6代家宣 (いえのぶ) 〜7代家継 (いえつぐ) を補佐し、儒学に基づく政治改革を行ったのが新井白石(あらいはくせき) であり、その政治を「正徳の治 (しょうとくのち) という。
正徳の治は新井白石が中心となって行われたが、その強力なバックアップメンバーとして、生類憐れみの令を廃止した6代将軍・徳川家宣や側用人の間部詮房 (まなべあきふさ)という心強い味方がいた。

新井白石は、儒学の中でも最も厳格に理論を構築する朱子学の学者だ。朱子学的な政治とは、ある問題に対して現実的な解決方法をさがすというよりも、まず「物事はこうあるべきだ。これが正しいのだ」という基本原理を打ち立て、それをとにかく押し通していく。そうすれば物事は自ずとよい方向へ変わっていくはず。正しいことをすればかならずや天の助力が得られるからだ。なぜなら人間も天(宇宙)も統一的な「理」で動いているから。(朱子学について詳しくは「朱子学ってなんのこと?」を見てね)

このような考え方がよいか悪いか、という判断は人それぞれだけど、とにかく超理想主義的な思想であることは確かだ。つねに理想的な姿、あるべき姿を描き、そこから出発するのである。そういう思想を奉じている人間が政治を行うとどういう政治になるか、というひとつの例が「正徳の治」といえるだろう。

「鬼」が行った改革

文治政治といっても新井白石は激しい性格の持ち主。将軍さえも追い詰める勢いで自分の信念を押し通すツワモノで、周囲からは「鬼」と呼ばれていた!

その鬼のような性格が現れた象徴的な出来事は、徳川綱吉時代に貨幣改鋳(改悪)を行った荻原重秀 (おぎわらしげひで) 首根っこをつかんで放り出すように幕府から追放してしまったことに現れている。荻原重秀は将軍や幕府の無駄遣いのせいなどで幕府の貯金が乏しくなったため、金銀貨の品質を落として数を増やすという政策をとった。
小判についていえば、流通している慶長小判を回収し、金の含有量を減らしてそのぶん小判の数を水増しし、総計で500万両というすごい儲けを幕府にもたらしたのだ。荻原の貨幣水増し作戦は当然ながら世にインフレをもたらし、景気をよくした反面、物価高に苦しむ人々を多数生み出したとされる。

白石はそんな荻原のやり方を苦々しく思っていた。そもそも先祖を崇めたてまつる儒学(朱子学)の大家・新井白石にとって、幕府の開祖である神君家康公が作られた立派な慶長小判の質を落とすなどとんでもないことなのだ。金をけずった小判を同じ1両で通用させるなどサギに等しい! しかも荻原は御用商人らから巨額のワイロを受け取ってフトコロを肥やしていたというではないか! 人間は金儲けなどにうつつを抜かさず、まずは天に恥じることのない正しい生き方をすることが大事なのだ。それでこそ平和で幸福な世が実現するのである!
朱子学の大家である新井白石は天を突き破るような巨大な怒りを発して、「おのれ、荻原のやつ絶対許さん! 極悪人荻原が辞めなければ、ワシが天に代わってこの世から抹殺してやる!」という激しい勢いで、強引に幕閣の座から引きずり下ろしたのだった。

そして白石は、荻原がやったのとは逆に、家康のときに作られた慶長金銀と同じ品質に戻す貨幣改鋳を行った。これが正徳金銀。白石はこの改鋳によってインフレ状態を解消できると思っていたのだが、あまりに急激な逆をやりすぎた。
世の中は貨幣の価値が上がりすぎるデフレとなり、物価は下がったのはいいけれど経済がまったくしぼんでしまい、不況となってしまった。物価が下がっても仕事がなくなっては意味がない。また米価も下がったため、米で給料をもらっている武士は貧乏になってしまった。
江戸の初期に比べて経済の規模はかなり大きくなっているのに−−つまりモノを作ったりモノをやり取りしたりする活動自体は盛んになっているのに、その活動を支える手段である貨幣の量を昔のように少なくしてしまってはうまく行かないのは当然だね。白石の理想を求める政治は世の人々には嬉しくなかったようだ。

新井白石というのは、当時の幕閣や並の儒学者らがとても太刀打ちできないほどものすごい学識と強固な意志を持っていた人物だったから、白石を用いた徳川家宣(いえのぶ)の治世が長く続いていたら、江戸時代の歴史は大きく変わっていたかもしれない。しかし6代・家宣は将軍になって4年たらずで死去、跡をついだ幼少の7代・家継(いえつぐ)も早世してしまった。8代将軍の徳川吉宗はすぐに白石をクビにして自分が政治のトップに立つことにしたから享保の改革、結局正徳の治は7年ちょっとで終わりを迎えることとなってしまったのだ。

正徳の治の政策

ここで新井白石が「正徳の治」で行った施策をかんたんにまとめてみよう。

正徳金銀の鋳造 …さきに述べたように勘定奉行荻原重秀を辞めさせ、貨幣改鋳を行って慶長金銀と同じ品質の正徳金銀(しょうとくきんぎん)を鋳造した。たとえば荻原が作った元禄小判では金の含有率が57.4%だったが、正徳小判では初期の慶長小判と同じ84.3%とした。

海舶互市新例を発布 …当時はオランダと清に限って貿易を行っていたが、輸入品の支払いのために金銀がどんどん国外へ出て行くのをきらって、貿易額を制限することとした。オランダに対しては年間2隻、取引額は銀3000貫まで。清に対しては年間30隻、取引額は銀6000貫までとした。これが海舶互市新例 (かいはくごししんれい) で、またの名を正徳新令長崎新令ともいう(この場合、例も令も同様の意味)。

閑院宮家の創設 …当時、世襲親王家は伏見・有栖川・桂(京極)の3家だけであり、皇統が断絶してしまうことを恐れた白石が、新たな宮家を創設することを献言し実現させた。この新たな宮家が閑院宮家(かんいんのみやけ)である。この白石の施策のおかげで、のちに後桃園天皇が後継の男子をもたずに崩御したとき、閑院宮家から祐宮師仁王(さちのみやもろひとおう)が光格天皇として即位することができた。そしてその血統は現在の皇室にまで続いている。

朝鮮通信使の待遇を簡素化 …朱子学者は身分の上下にうるさい。白石は世の人々が将軍や幕府の言うことをよく聞くよう徳川将軍の権威を高めようとした。それまで朝鮮からの通信使が将軍のことを「日本国大君殿下 (たいくんでんか)と呼んでいたのをやめさせ、将軍を「日本国王」と呼ぶようにさせたのだ。
「大君」というのは、日本では天皇の呼び名である一方、朝鮮においては王子(=国王の側室の子)の子をさす言葉(つまり朝鮮国王の孫のなかでも付録のような立場の子)で、徳川将軍が朝鮮国王より身分が下ということになってしまう。そんなカッコ悪いことは朱子学者・新井白石としては許せないことだったのだ。それと同時に経費節減のためもあり、それまで通信使を御三家並みに厚くもてなしていた慣習もやめて、かなり簡単な扱いに変えてしまった。通信使たちはさぞやガッカリしたことだろうね(ただし徳川吉宗が将軍になると、また厚遇するようになった)。