〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(さんきんこうたい)
参勤交代ってなんのこと?

(画像出典:https://www.ac-illust.com/)

参勤交代とは、大名が領国と江戸とを1年おきに往復し、妻子を人質として江戸に住まわせた制度のこと。

領国と江戸を往復

参勤交代 とは、大名が領国と江戸とを1年おきに往復する制度のことだ。たとえば4月から1年間江戸に滞在し、翌年の4月に国元に帰って1年過ごし、その翌年の4月にまた江戸にのぼるというような移動を繰り返す。

大名は領国と江戸を行ったり来たりだけど、大名の妻子はずっと江戸に留まらなければならない。つまり大名は1年間は妻や子供に会えないわけである。(側室や側室の子などは国元での残留が認められた。まあそのほうが好都合だった大名もいたかもしれないね^^;)

参勤交代の制度は、大名が将軍家に対して謀反などの企てをさせず、主従関係をしっかりと内外に知らしめるために定められたものだ。また、大名行列の費用や江戸での滞在費用は莫大なもので、大名家にとってすごく大きな負担となった。参勤交代には大名家があまり力をつけないように財産を消費させる目的があったともされる。

億単位の費用がかかる旅!

参勤交代は徳川家光のとき、寛永12年(1635年)の武家諸法度で正式に制度化されたものだが、それ以前から徳川家への忠誠を表すために自主的に参勤交代のようなことは行われていた。また人質として妻子を他家へ預けるということはずっと前から慣習として行われていた。とくに戦国時代では同盟や主従関係を結んだ証明として人質のやり取りが頻繁に行われていたね。

参勤交代の費用は大名家によってさまざまだけれど、禄高や家格の高い大名は同行する家来の人数も多いし、威厳を保つための費用というものも必要だ。たとえば加賀百万石と呼ばれた前田家では金沢から江戸にのぼるのに約2週間を要し、その費用は5000両、今の貨幣価値に直すとざっと5億円以上の出費となった。
(江戸から最も遠い薩摩藩の場合、2カ月近くかかり費用も1万5000両かかったという記録がある)

江戸藩邸の維持、大名や側近、藩士たちが江戸で暮らすための費用はさらにかさむ。何しろ江戸は現代の都心と同じく一大消費地。何をするにも金がかかる。こうしてほとんどの藩ではだんだん財政が苦しくなっていったのだ

一方で、武士を相手に仕事をする江戸の町人とりわけ商人たちはだんだん豊かになっていった。また、武士たちが頻繁に往来することで、江戸などの大都市の文化や産物が地方に伝わったり、街道や宿場が整備されたりという「副産物」もあったんだね。

参勤交代では船も使ったの?

ちょっと考えるとみんな船を使えば楽に移動できるんじゃないか?と思えるけれど、当時の船では海路は遭難の危険が大きいし、天候が荒れたり風待ちになったりして予定が遅れてしまうこともある。

ただし西国の大名の場合、瀬戸内海を通って大坂までの移動に船を使うこともあった。それでも街道が整備されると陸路を利用するようになった。(幕末になると西洋式の堅牢で高速の船(蒸気船・帆船)が普及したおかげで、幕府や大名家の要人などには船は不可欠の交通手段となったね)

享保の改革で、参勤交代がちょっと楽になる

徳川吉宗が行った享保の改革(1716年〜1745年)では、幕府の財政が厳しくなったので、各大名から石高1万石につき、100石を上納させた代わりに参勤交代の江戸在府期間を1年から半年にまけてあげた(上米 (あげまい) の制)。つまり江戸に半年、領国に1年半というサイクルになった。この制度は8年ほど続くことになる。その間は大名の負担はかなり軽くなったようだ。つまりそれだけ江戸の滞在費というのが大きかったということだね。

もうちょっと詳しく…

外様大名の場合は、基本的に4月に江戸に到着して将軍に拝謁することになっていた。そのため遠い領国の大名は2月〜3月くらいに出発することもあった。また、譜代大名の場合は6月または8月に参勤することとなっていた。
江戸在府期間は原則として1年だが、江戸に近い関東の大名は2月と8月に半年ごとの参勤交代となった。
水戸徳川家(水戸藩)は特別扱いで、参勤交代がなかった(つまり水戸藩主は常に江戸にいる)。また、「老中」や「若年寄」など幕政の中心となる役人は主に譜代大名から選ばれるが、こうした役職を得ている大名は江戸城で政務をとるため、やはり常時江戸にいることになる。このように参勤交代をせずに江戸に居続けることを「江戸定府 (じょうふ)」という。

全国の大名は、代わるがわる江戸に参勤する。つまり、(外様大名であれば)同じ年の4月に全国の大名がいっせいに江戸に集まるわけではない。制度がはじまった当初は、東国の大名が江戸にいる間は西国の大名は領国にいる、というように全国を東西に分けて参勤交代していた。ところが、1637年(寛永14年)に島原の乱が発生したとき、九州の諸大名がそろって江戸に参勤中で領国を留守にしていたため、鎮圧のための兵力動員に支障をきたしたということがあった。これ以降、ある地域の大名が同時に不在になるということが起こらないように調整されることとなった。

参勤交代の旅で途中宿泊するときには、大名は通常、宿場でもっとも格式の高い「本陣」という宿を利用するが、もし自分より格上の大名家や朝廷からの勅使の一行が同じ日にかち合ってしまった場合は、本陣をゆずって「脇本陣」に移ることもあった。
参勤交代の大名行列がなるべくスムーズに旅できるように、大名家では何ヶ月も前から家臣を派遣して、宿や休憩所の調査をし予約を行った。また旅の直前にも宿割役人を派遣して、誰がどの宿に泊まるかなどの詳細なスケジュールを立てて入念に準備をした。

【参考文献】
・平井聖監修『大名と旗本の暮らし』学習研究社、2000年