〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(おぎわらしげひで)
荻原重秀ってどんな人?

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(画像出典:イラストAC

荻原重秀は、5代将軍徳川綱吉の治世に元禄の貨幣改鋳などの経済政策を実行し、行き詰まっていた幕府財政を回復させた人物。勘定奉行。

超キレモノの勘定奉行・荻原重秀

荻原重秀(おぎわらしげひで) は、おもに5代将軍徳川綱吉の時代(元禄時代)に勘定奉行をつとめた人物だ。勘定奉行は財務のトップを担う重職。貧しい旗本の家に生まれながら経世済民(経済)の才覚するどく、どんどん頭角を現して出世街道を上り詰めた。まさに勘定奉行になるために生まれてきたような男だ! 

徳川家康がひらいた江戸幕府は最初の頃こそ大金持ちだったが、「生類憐れみの令」で有名な5代目・徳川綱吉のころにはフトコロ具合がだいぶ悪化していた。江戸城を立派にしたり日光東照宮などの寺社を建てたり大奥に贅沢三昧をさせたりして気前よく金をばらまいているうちにどんどん貯金が減ってきたのだ。明暦の大火で大きな被害を受けた江戸の町の復興も大変な出費となった。

だが徳川綱吉はゼイタク好きで、大きな寺院を建立したり修理したりするのが大好きだった。幕府の財政が悪くなってきても節約をしようなどという発想はない。むしろ贅沢をつづけながら幕府のフトコロも暖かくする方法はないものかとムシのいいことを考えていたのである。

小判の水増し作戦

そんなとき、「上様、よき考えがございます」と将軍に悪知恵を提供したのが、当時勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)だった荻原重秀である。そして行った政策が「貨幣改鋳」(かへいかいちゅう)。貨幣改鋳というのは、古い貨幣を溶かして新しく貨幣を造り直すということだね。荻原はそれまでの慶長小判を回収して、中に含まれる金の量を減らした元禄小判に造り替えたのだ。つまり品質を落としたわけ。
1枚あたりの金を節約し、小判の数を水増しした結果、幕府は莫大な出目(=差益)を手にした。金銀貨で500万両というすごい儲け。なんというズル賢いやつだ!(といっても、じつはこうした貨幣改鋳は古今東西でよく行われてきたことではある) だが綱吉はもちろん大喜び。荻原はその功績が評価されて勘定奉行となったのである。

「別に改鋳しなくても、幕府は金山をいっぱい持っているんだから、それで小判を新しく作ればいいじゃん」と思うかもしれないが、当時すでに主要な金山銀山は枯れてきたり、当時の採掘・精錬技術の未熟さゆえに埋蔵されている鉱物から効率よく小判を作ることが難しくなっていた。今流通している貨幣を回収して造り替えるのが一番手っ取り早いのである。

インフレ発生、そして荻原は悪役へ

荻原重秀がやった貨幣水増し政策のおかげで、苦しかった幕府の財政はとりあえず落ち着いた。綱吉も贅沢をあきらめずにすんだ。しかし質を落とした貨幣がたくさん出回ったことで貨幣の値打ちが下がり、そのぶん物の値段が上がることになった。つまりインフレーションとなったのである。このインフレにより経済は混乱し、庶民は大いに苦しめられたとされ、そのため荻原はいまでも悪党のレッテルを貼られている。
が、一方では元禄時代の好景気に貢献したという見方もある。そしてもともと経済が発展してきていたのに貨幣の供給量が少なかった(デフレ状態)のだからその政策は誤りではなかったという人もいる。

しかしいずれにせよ、カネというものは自然と金持ちに集まっていくもの。「インフレになって貨幣価値が下がっても、貨幣の量が増えればいいじゃん」と思うかもしれないが、それは貨幣が自分のところに来てくれて初めて言えることなのである。大方の庶民の思いとしては「収入はたいして変わらないのに物価が上がったぶんだけ、苦しくなるじゃないかよ!」ということなんだね。

「天敵・新井白石」現る

そして、荻原重秀の才能を遺憾なく発揮させてくれた綱吉が宝永6年(1709年)に世を去り、6代将軍徳川家宣(いえのぶ)の時代になると荻原に天敵が現れた。家宣が可愛がっていた儒学者・新井白石 (あらいはくせき)である。白石は荻原のやった貨幣改鋳を、「神君家康公が造られた立派な慶長金銀をおとしめやがった。絶対に許せん!」と親のカタキのように憎みぬき、幕閣から追放してしまったのである。荻原は貨幣改鋳事業を通して私腹を肥やしたり、紀伊国屋文左衛門らとつるんでボロ儲けしたと伝えられているが、当時としては随一の経済通であった荻原重秀の名が今でも悪役のイメージで語られることが多いのは新井白石の悪口のせいであるといっていい。