〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(まつごようし)
末期養子ってなんのこと?

末期養子とは、跡継ぎのいない武家の当主が、死ぬ直前になって養子縁組をして跡をつがせること。江戸時代の初期はこの行為を禁じていた(末期養子の禁)

しかし、慶安の変の発生(1651年)など浪人問題が深刻になると、幕府は末期養子の禁をゆるめた。これは武家が断絶することによってその家の家臣らが浪人となることを防ぐためである。

死ぬまぎわに養子を取ることを禁ずる

末期養子 (まつごようし)とは、跡継ぎとなる子(嫡子)をもたない武家の当主が、死ぬ直前になってあわてて養子を取って跡を継がせることである。江戸時代の初期には、幕府は大名に対してこの行為を禁じていた。これが「末期養子の禁」とよばれるもの。つまり養子を取るなら「私の跡はだれそれが継ぎます」と、あらかじめ幕府に届け出ておかなければいけないのである。

跡継ぎを決めないまま大名が死ねば、原則としてその家は「取りつぶし」となる。「お家断絶」である。すると(会社が倒産したのと同じで、)その大名に仕えていた家臣一同みな浪人となり、家族ともども路頭に迷うことになってしまう。

じゃあ早めに養子の届け出をしておけばいいんじゃないの? と思うかもしれないけど、跡継ぎの養子を決めたあとに実子が生まれるとややこしいことになるからなかなかタイミングがむずかしいのだ。応仁の乱の例を引くまでもなく、そうしたことがお家騒動を引き起こした例はたくさんあるからね。

「死ぬ直前に養子を取る」といっても実際は死に瀕しているときに本人が正常な判断ができないことも多いし、医療が未発達のころだから急病にかかって遺志も表明できないままあっけなく死んでしまうことも多かったんだね。だから実質的には「末期養子=当主の死亡後に(遺族や家臣が)養子を選ぶこと」を意味していた、と言ってもいい。

なんで末期養子を禁じていたの?

ということは、もし末期養子を認めれば、たとえば主家乗っ取りをたくらむ家臣が主人を亡きものにしたのち、自分に都合のよい(自分の意のままになる)養子を取らせるということも可能になるということだ。これはすなわち戦国時代の下克上的パターンといえる。
平穏な封建社会をめざす幕府としては、そんな可能性があることは決して望ましいことではない。 だから幕府は末期養子を禁止していたし、とくに江戸初期は他の大名の力を警戒していたから、なにかにつけて大名の跡継ぎをさせない方向へ、つまり改易(取りつぶし)の方向へ持って行こうとしていたんだね。
小さなことにケチをつけイチャモンをつけ、どんどん大名家をつぶしていった結果、失業した武士つまり浪人もどんどん増えていった。末期養子の禁止によって改易された大名は46家で計457万石(減封は12家で16万石)にもなっていたのだ!

この大量の浪人たち(このころは「牢人」と書くほうが正確)が世の中を騒がすことになる大坂の陣(1614-15年)において豊臣家は関ヶ原の戦いで発生した大量の浪人を雇って徳川家と戦い、島原の乱(1637-38年)でも反乱軍で浪人が活躍し、そして慶安の変(1651年)では、軍学者の由井正雪(ゆいしょうせつ)が浪人を使って幕府を転覆させるための大陰謀をめぐらすところにまでなったのだ。

この慶安の変が起こったことで、さすがに幕府も「こりゃいかん。これからは大名をやたらにつぶすことは控えよう」と反省したのだった。そしてその手始めとして、末期養子の禁をゆるめ、条件付きで末期養子も認めるということにしたのだ。

条件とは、「当主が50歳未満であること」ということや「幕府が当主の遺志を確認できた場合」などであるが、実際にはそれぞれの家の状況をみて許可・不許可を判断したようだ。ここで重要なのは、幕府はそれまで末期養子をまず絶対に許さなかったという方針を変えて、場合によっては認めるという態度に変えたことだ。つまり幕府はそれだけやわらかくなったということだね。

【参考文献】
・笠原一男著『日本史研究』山川出版社、1997年