〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(かんせいいがくのきん)
寛政異学の禁ってなんのこと?

(画像出典:https://www.ac-illust.com/)

寛政異学の禁とは、寛政の改革のなかで行われた学問統制のこと。幕府が運営する聖堂学問所(昌平坂学問所)においては、朱子学だけを正しい学問として教えることとした。その他の学派は「異学」と位置づけ、教えることを禁じた。

人気がなくなってきた朱子学

儒学のなかでもとくに朱子学は、上下の身分をはっきり区別することが重要であると教えています。 そのため封建制度によって日本を治める江戸幕府は「どんどん朱子学を学びなさい!」と諸大名や武士たちに奨励しました。
こうして武士や儒学者のあいだに朱子学が広まっていったのですが、江戸中期にさしかかると、だんだんと朱子学の人気は衰えるようになりました

なぜ朱子学の人気がなくなっていったか。その原因のひとつとして、朱子学があまりにも堅苦しく、「理」という概念ですべてのものをがんじがらめにしてしまうということがあげられるでしょう。
理というのはこの世のあらゆるものを背後で動かしている法則のようなものです。この法則によって「人間の上下の身分差」も説明されているのです。
(どういうことなのか詳しくは「朱子学ってなんのこと?」をご覧くださいね)

たとえば、京都の儒学者であった伊藤仁斎 (いとうじんさい) は、最初は熱心に朱子学を学んでいましたが、そのうち「この学問は、理屈はよくできてるけど、なにか人間的要素、人間らしさのようなものが欠けとるんやないやろか?」と疑いを持ち始めました。
朱子学は、1100年代の中国・南宋の時代に朱熹(しゅき)によって完成された儒学です。伊藤仁斎は「真の儒学を学ぶには、やはり孔子や孟子という儒学の開祖たちの教えに立ち戻らなければならない」と考えました。このように考えた人々は一般に「古学派 (こがくは)」 と呼ばれます。有名な荻生徂徠 (おぎゅうそらい)などもこうした考え方の一員です。迷ったら初心に帰れ!ということですね。

またそのほかに、朱子学や陽明学それに今述べた古学などの中から、それぞれの良いところを取り入れる「折衷学派 (せっちゅうがくは)というグループもできました。言うなれば「つまみ食い派」みたいなものですね。
こうしていろんな学派が出てきて、幕府が推奨する朱子学はだんだん忘れられかけていきました。

異学を禁ずる!

そんななかで老中となって寛政の改革を行うことになった松平定信 (まつだいらさだのぶ)は、バリバリの朱子学徒といっていいでしょう。「このまま朱子学が衰えてしまうのを見捨ててはおけぬ!」と考えました。かれは幕府の権威をたもつためにも朱子学を再興させようとしたんです。朱子学の理論体系はめちゃくちゃ壮大で精巧にできています。朱子学を百科事典とすると、古学派や折衷学派などは週刊誌くらいの軽さだと、たぶん朱子学者たちは思うことでしょう。

危機感をおぼえた松平定信は、寛政2年(1790年)、幕府の公認儒学スクールである湯島の聖堂学問所(湯島聖堂)においては、朱子学以外の学問を教えることを禁ずるというお触れをだしました。これが「寛政異学の禁」です。聖堂学問所で教えるのは朱子学だけ。そして幕府の官吏登用試験も朱子学だけ、ということになったのです。
そしてそれまで湯島の聖堂学問所は、幕府と林家 (りんけ) (=林羅山を祖とする幕府公認の儒家)の共同運営のような形でしたが、林家にはたいした儒学者も出なくなってきたので、松平定信は「もう学問所は幕府だけでやる」として、学問所を幕府直轄にしてしまいました。名前も少し変わって昌平坂学問所 (しょうへいざかがくもんしょ) となりました(昌平黌(しょうへいこう)と呼ぶこともあります)。

寛政異学の禁は、幕府内だけの統制であって大名家(各藩)は基本的にその統制は受けなかったのですが、「ご公儀が朱子学以外は禁ずると言われているので、うちもそうしよう」と追随し、その結果、衰えかけていた朱子学はまた復興し、逆にその他の学問は伸び悩むこととなりました。

ちなみに、朱子学専門となった昌平坂学問所の教授として、3人の有名な儒者(朱子学者)がいます。古賀精里 (こがせいり) 、尾藤二洲 (びとうじしゅう/びとうにしゅう) 、柴野栗山 (しばのりつざん) の3人で、いわゆる「寛政の三博士 (かんせいのさんはかせ)として知られていますのでちょっと覚えておきましょう。