〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(かいえき)
改易ってなんのこと?

(画像出典:https://www.ac-illust.com/)

改易とは、大名の領地(領知)・身分・家屋敷を幕府が没収し、大名としての家を断絶させて(取りつぶして)しまうこと。

大名たちをコントロールするには…

戦国時代とは、各地の大名(戦国大名)たちが互いに争い、大混乱が続いた時代です。ですから、戦国時代が終わって徳川家の天下が始まったとき、将軍や幕府の老中たちは、どうやって全国の大名(とくに外様大名)を統制するかということに頭を悩ませました。

外様大名とは、徳川家の親類(=親藩)や家来の出身(=譜代大名)ではない、一般の大名のことです。幕府が開かれた最初のうちは、力のある外様大名たちが反乱を起こすのではないかと幕府首脳はびくびくしていました

アメとムチの政策!

そこで幕府がとったのはアメとムチの政策
外様大名の中でも、それまでに手柄を立てたり従順な態度を示した大名家には、たくさんの土地を与えるようにしました。人間だれしも金持ちになるとそれを失いたくないと思うもの。かれらは「幕府が領地を保障してくれるなら頭を下げておこう」と考え、幕府(将軍)に対して忠誠を誓って、お家の安泰をはかろうとしたのです。封建社会のトップに立つ幕府としては大名が保守的になってくれるとたいへんありがたいのです。

ひどすぎるムチ!

いっぽうで幕府は、自分たちに少しでも反抗的な姿勢を見せた大名に対しては容赦なく減封(げんぽう)改易(かいえき)という処分を下しました。 減封は領地を減らされるだけですみますが、改易となると大名をやめなければなりません。幕府から与えられていた領地や家屋敷はすべて没収です。

それまで大会社を所有していた社長サンが、突然会社を奪われ、社長の肩書きも奪われ、財産も私邸も全部取り上げられて、すっぽんぽんにされて他の会社(=他の大名家)へ身柄を預けられたりということになるのです。あまりにもひどいムチですね。

改易となった理由

江戸時代、具体的にどういう理由で大名が改易になったかというと、まずは武家諸法度に違反した大名です。「天下のご公儀(幕府)が作った法律をやぶるようなけしからん大名はクビだ!」ということですね。

つぎに、世継がいないまま死んでしまった大名家はやはり改易となりました。当時は末期養子(まつごようし)を取ることは認められていませんでした。つまり、大名が病気になって死にそうになってからあわてて養子を取って跡継ぎにすることは禁じられていたのです。(そのわけは「末期養子ってなんのこと?」を見てくださいね)

それから、お家騒動を起こしたり、百姓をいじめすぎて反乱(一揆)を招いたりしたときも改易となることがありました。領地をうまく治められなければ大名の資格はないぞ!ということですね。

このように大名を改易とする理由はいろいろあったのですが、実のところ幕府にとってはもっともらしい理由などは二の次で、本当はできるだけたくさんの大名を取りつぶしたい反乱の芽をつんでおきたいという本音があり、とにかくどんどんと大名を改易にしていったのです。それだけ大名の力を警戒していたということですね。

幕府もちょっと反省

ところで、大名家が改易となると家臣たちは浪人(牢人とも)となります。会社がつぶれて社員が失業者となるのと全く同じです。浪人は禄(給料)がもらえないから貧乏になり、家族も養えなくなり、腹ぺこになり、自分をこんな目に遭わせた幕府をうらむようになります

1651年(慶安4年)には、このような不平不満をもつ浪人たちが集まって慶安の変 (けいあんのへん)を起こしました。それまでにもすでに浪人の増加による治安悪化が問題となっていたのですが、慶安の変では軍学者の由井正雪が具体的な倒幕計画を立てて実行寸前となっていました。

結局陰謀は未遂に終わったのですが、この事件にはさすがの幕府も衝撃を受け、「今までのやり方は間違っていた。これからは大名をむやみに取りつぶすのはやめよう」と考えるようになったのでした。

武断政治から文治政治に

慶安の変によって、幕府はこれまでの方針を変え、末期養子を条件付きで認めるなどの柔軟な対応を取ることにしました。したがって大名の改易も減っていったのです。

こうして力にものを言わせて強権的な政治を行う武断政治(ぶだんせいじ)から、教育や文化を重視する文治政治 (ぶんちせいじ)へと変わっていくことになります。将軍の代で言えば、初代の家康から3代の家光までが武断政治、4代として幼い家綱が将軍の座についたときに慶安の変が起き、それ以降は文治政治の時代に移行していくことになるのです。

もうちょっと詳しく…

江戸初期のころ、幕府は大名をどんどん改易したといいましたが、具体的には1601年(慶長6年)から1651年(慶安4年)までの50年間に改易された大名は、親藩・譜代大名が49人、外様大名は82人にのぼりました。

また「改易」とともによく出てくる語が「転封 (てんぽう)です。これは大名をよその土地へ移転させることです。大名を改易すると領地だったところが空白地帯になるので、代わりに別の地域にいた大名をそこに転封させることになりますね。

転封によって、今よりも石高が増えるならば加増(かぞう)になりますし、逆ならば減封(げんぽう) ということになります。 幕府は、危なそうな外様大名はなるべく改易したり、あるいは遠隔地に転封させ、その代わりに譜代大名を要地(主要街道ぞいや関東周辺)に配置し、支配力を安定させていったのですね。

改易は基本的には大名家の「取りつぶし」ですが、場合によっては幕府の"恩情"により、多少の禄(給料・領地)を残して家名存続を許すこともありました。

【参考文献】

・藤井譲治編『日本の近世 3支配のしくみ』中央公論社、1991年