〜幕末トラベラーズ〜

日本史用語集

江戸時代

(えぞち)
蝦夷地ってなんのこと?

蝦夷地とは北海道以北で、おもにアイヌ民族が住んでいた地域のこと。

アイヌ民族の地

蝦夷 (えぞ)=北海道というイメージがありますが、じっさいは主にアイヌ人が住んでいた地域の呼び名であって、江戸時代のころには蝦夷地(えぞち)といえば樺太や千島列島もふくんでいました。

長い間、日本の国の為政者は蝦夷地にあまり関心がありませんでした。平安京を開いた桓武天皇の時代、東北あたりに住んでいた蝦夷 (えみし) を追っ払ったり取り込んだりして、本州をすべて「日本人」の国にしようとしましたが、北海道より北には手を伸ばさなかったのです。寒くて米はできないし、住みづらいし、あえて開拓する必要性も感じられなかったんですね。ちなみに蝦夷(えみし)というのは、のちにアイヌと呼ばれるようになった民族も含めて、朝廷に従わなかった人々を引っくるめて指した言葉です。ですので、蝦夷(えみし)という名の民族がいたわけではありません。

ちょっとややこしいので、江戸時代、蝦夷地(えぞち)とは北海道以北をさす言葉で、おもに(大和民族とは異なる)アイヌ民族が住んでいた地域と覚えておきましょう。北海道でいちばん本州に近い一角だけ、松前藩が置かれ、アイヌとの交易を幕府公認のもとで独占的に行っていました。

前に述べたように、幕府は蝦夷地の経営ということにはほとんど関心がなかったのですが、1700年代の後半からロシアが極東地域に進出してきたことを受けて、この方面の調査を本格的にはじめたのです。

バルト海からはるか内陸の寒い痩せた土地を営んでいたロシアという国が、膨張政策の結果現在のような巨大な面積をもつ国家になったそもそものきっかけは、1682年に皇帝となったピョートル大帝がつくったのです。ピョートルは1700年代のはじめ将軍綱吉のころに、はやくも首都であるサンクトペテルブルクに日本人学校をつくり、将来の日本との交流(侵略)に備えています。おそるべき布石といっていいでしょう。

蝦夷地の探検家たち

仙台藩江戸詰の藩医で経世家(現代の政治経済評論家にあたります)だった工藤平助は、膨張するロシアへの対策と交易について書いた「赤蝦夷風説考」 (あかえぞふうせつこう)を時の老中・田沼意次に提出しました。商売好きな田沼はさっそく蝦夷地の産物に着目し、俵物 (たわらもの)といわれる海産物の生産や金銀山の開発を進めようとします。そして本格的な蝦夷地の探検隊の派遣を決めました。

蝦夷地の探検家としては、最上徳内(もがみとくない)、近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)、間宮林蔵(まみやりんぞう)が有名です。

とくに最上徳内は蝦夷地探索のパイオニア的な人で、その後の蝦夷地探検や開発の道筋をつけた人です。出羽国の貧しい農家に生まれながら学問にはげみ、師匠の本多利明の推薦を受けて蝦夷地の探検隊に加わり、その後何度も国後 (くなしり)島、択捉(えとろふ)島、得撫(うるっぷ)島、千島列島から樺太方面まで探検を繰り返しました。アイヌ人やロシア人とも良好な関係をきずいて、幕府の蝦夷地調査に大きな貢献を果たした人物です。シーボルトからもその人物と功績を高く評価されました。

その他、近藤重蔵は蝦夷地に道路をつくり、また最上徳内の助けを得て択捉島に日本国の領有地であることを示す標柱を建てました。間宮林蔵は樺太が島であることを確認し、のちに間宮海峡と名付けられた海峡の大陸側(沿海州)に上陸してアムール川流域を探検しました。

また、伊能忠敬 (いのうただたか) は探検家というわけではないけれど、蝦夷地の測量を行って正確な地図を作ったことで知られています。間宮林蔵は伊能忠敬から測量術を教わり、忠敬とともに蝦夷地の地図作成を行いました。