幕末トラベラーズ

山口・湯田温泉の史跡

周布政之助・来島又兵衛碑
(すふまさのすけ・きじままたべえひ)

山口市亀山町

現在、サビエル記念聖堂となっている敷地内に、長州藩の重臣だった周布政之助と禁門の変で戦死した来島又兵衛の碑が立っている。

周布政之助・来島又兵衛碑

当地は戦国末期に毛利秀元が長山城の築城を開始して以来、毛利家が所有しており、毛利敬親とその世子・元徳や長州藩支藩の藩主の銅像・記念碑が多く建てられていた。銅像は太平洋戦争中の金属供出で撤去されたが石碑はそのまま残った。戦後土地の一部がサビエル教会の用地として売却され、昭和27年(1952年)サビエル記念聖堂が完成した。

サビエル記念聖堂の正面に向かって左手に、長州藩の重臣だった周布政之助と禁門の変で戦死した来島又兵衛の碑が残っている。

周布政之助については、「周布政之助碑」を参照。

来島又兵衛

来島又兵衛は文化13年(1816年)生まれ。江戸での剣術修行を終えたあと、嘉永元年(1848年)に手廻組に入隊、その後毛利元徳の駕籠奉行となり藩要職を歴任した。文久3年(1863年)には下関における攘夷戦争に参加、また猟師で構成された狙撃隊を率いて上洛し、禁裏守衛に当たった。

文久3年に高杉晋作が奇兵隊を創設すると、来島又兵衛も遊撃隊を組織し総督となる。その後八月十八日の政変で長州藩が京都政界を追われると、藩内強硬派の又兵衛は一貫して出兵による失地回復を主張した。翌元治元年6月に池田屋事件が起きたのをきっかけに福原・益田・国司の三家老は藩主の冤罪を天皇に帝に訴えるとして上京軍を編成し、又兵衛は軍監として兵を統率した。

7月19日ついに禁門の変が起こり、又兵衛は風折烏帽子、陣羽織、具足という出で立ちで奮闘し会津兵らを蹴散らしたが、西郷隆盛率いる薩摩軍が加勢にはいると形成は逆転、西郷配下の川路利良(かわじとしよし)が又兵衛を狙撃、又兵衛は胸を撃たれたあと自刃した。享年48。

PHOTO

(毛利敬親像のある亀山公園から階段を下りていくと、亀山の中腹に建つ白いサビエル聖堂が見える。周布政之助・来島又兵衛碑は聖堂の左手前のほうにある)

(駐車場の隅(矢印の地点)に立つのは、禁門の変で長州軍を率いた来島又兵衛の碑)

(来島又兵衛の碑 篆額・毛利元昭、撰文・井上馨、書・野村素介)

(聖堂の左手に、長州藩の尊王攘夷派志士たちを支援した周布政之助の碑がある(矢印の地点))

(周布政之助の碑 篆額・毛利元昭、撰文・井上馨、書・野村素介)

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