幕末トラベラーズ

長崎の史跡

シーボルト宅跡

長崎市鳴滝2丁目

シーボルトは、ドイツ人の医師・博物学者。最初出島に滞在していたが、のち長崎郊外の鳴滝(なるたき)に塾と診療所を構えて、日本人に西洋医学や蘭学を教え、彼の弟子の多くが幕末期に活躍した。その塾(診療所)の跡が、「シーボルト宅跡」となっている。

シーボルト宅跡

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(1796年2月〜1866年10月)は、ドイツ人で医学、植物学などを学び、1823年に来日した。ペリー来航の30年も前であるから、当時はもちろん鎖国状態。しかも西洋人はオランダ人しか入国できなかったため、ドイツ人のシーボルトはオランダ人と偽って入国し、出島に居住した。

のち、長崎奉行から出島の外で塾を開くことを許され、鳴滝の地に私塾と診療所を開いた。彼の塾には、高野長英(たかのちょうえい)、二宮敬作(にのみやけいさく)、伊東玄朴(いとうげんぼく)、美馬順三(みまじゅんぞう)、長岡謙吉(ながおかけんきち)(謙吉は龍馬暗殺後、二代目の海援隊隊長となった)らが集まって医学や自然科学などを学んだ。

日本滞在の間に、楠本滝(くすもとたき)と恋に落ち、娘・楠本イネをもうけた。

文政11年(1828年)にシーボルトは再来日を期して一時帰国をすることにしたが、このとき彼の荷物の中に、国外持ち出しが禁じられていた日本地図が入っていたため、これを幕府にとがめられて(永久)国外追放処分となる。

シーボルトが帰国後、時は移って嘉永6年(1853年)にペリーが来航し、翌年日本は開国。安政5年(1858年)に日米修好通商条約につづき日蘭修好通商条約が結ばれると、シーボルトの追放処分は解けて、安政6年(1859年)にオランダ貿易会社の顧問として再来日し、幕府顧問も勤めたあと、文久2年(1862年)に欧州へ帰った。

シーボルトが日本に残した混血の娘・イネは、のち長州の軍師・大村益次郎が京都で襲撃されたときの傷がもとで死去したとき、最期まで献身的に看病した。

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(ドイツ人・シーボルトはここに鳴滝塾をつくり、西洋医学・自然科学など幅広い分野の学問を教えた)

(シーボルト胸像)

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