幕末トラベラーズ

京都の史跡

鷹司邸跡
(たかつかさていあと)

京都市上京区京都御苑

京都御苑内(御所の南)にある公家の鷹司邸跡。禁門の変のとき、長州藩兵がここにたてこもって最後の攻撃を行った。

鷹司邸跡

鷹司家は鎌倉期に藤原氏から分かれた公家で、五摂家(近衛、鷹司、九条、一条、二条)のひとつ。ペリー来航のころは関白・鷹司政通(たかつかさまさみち)が朝廷内で主導的な地位をしめていた。保守的な攘夷派の多い公家のなかで政通は開国派だった。徳川斉昭は義弟にあたり、妻を通して斉昭から外国事情を入手し孝明天皇に伝えていた。

禁門の変のときの関白は、政通の子である鷹司輔煕(たかつかさすけひろ)。鷹司邸は長州軍の拠点のひとつとなっていた。戦況が不利になると、長州藩の久坂玄瑞(くさかげんずい)は、鷹司輔煕に対し、ともに宮中に参内して長州藩の復権のため天皇に嘆願してくれるよう願ったが、輔煕はこれを拒否。久坂は寺島忠三郎(てらしまちゅうざぶろう)とともに邸内で自刃して果てた。

鷹司政通・輔煕

鷹司政通は、文政6年(1823年)に関白となり、以後「日米和親条約」締結後の安政3年(1856年)まで30年以上関白を勤めた。日本の開国を非とする孝明天皇とは意見の違いがありながらも、天皇は政通の政治手腕を頼りにしていた。政通が年齢を理由に関白を辞めたいと願い出たときも天皇はなかなかこれを許さなかった。

政通の妻・清子は水戸藩主・徳川斉昭の姉。したがって政通にとって斉昭は義弟の間柄である。政通はしばしば書簡を通じて徳川斉昭から外国情報を得ており、それを孝明天皇に伝えていた。

しかし政通は、斉昭のような攘夷主義者ではなく、アメリカ領事のタウンゼント・ハリスが「日米修好通商条約」の締結を幕府に強要し、幕府が条約締結への理解を朝廷に求めてきたときも、これを是認する態度をとっていた。このとき関白の座は九条尚忠に移っていたが、政通も太閤(前関白の称号)として依然として力をふるっていたのである。

通商条約締結問題が大きくなってきたころから、天皇と政通の関係はぎくしゃくし始めたが、政通は若い天皇が頼みにし続けた存在でもあり、朝廷は条約締結の可否について、懸念を示しつつも最終的には幕府の判断に委ねるという方向に向かっていた。朝廷にとっては幕府との関係維持も重要だったのである。

ところが、幕府の開国政策に不安をつのらせた中下級の攘夷派公家たちが「廷臣八十八卿列参事件」を起こしたことがきっかけで状況は急転回した。定見をもたない九条関白が彼らの主張に押し切られるかたちで翻意し、朝廷の総意としては条約勅許を幕府に与えないことに決定したのである。

政通は安政5年(1858年)7月に内覧を辞して、朝廷の政治から退いた。すでに関白の座は安政3年(1856年)に降りており、その後関白の座は 九条尚忠(くじょうひさただ)、近衛忠煕(このえただひろ) と移った。そして文久3年(1863年)1月に、政通の子である鷹司輔煕(すけひろ)が関白となった。

鷹司輔煕は、年少のころから公家の仲間入りをし、最初は父の影響もあり開国是認派にあった。その後攘夷派に近づき戊午の密勅に関わったこともあって、安政の大獄で処罰を受け、一時出家する。

文久2年に朝廷に復帰し、文久3年に関白とはなったが、孝明天皇の信頼はそれほど厚くなかった。文久3年の長州藩追放の政変には、その計画を知らされることはなく蚊帳の外に置かれた。輔煕は攘夷強硬派にもある程度の理解を示していたため、朝廷内での長州系志士らの拠り所となっていた。

元治元年(1864年)7月19日に起きた禁門の変では、長州軍の指揮をとっていた久坂玄瑞が自軍の敗北を察し、最後の頼みとして鷹司邸にはいり、輔煕の参内の供をして天皇に嘆願させてほしいと願った。が、輔煕はこれを拒否して立ち去り、久坂は寺島忠三郎とともに邸内で自害した。

変のあと、7月27日、輔煕は長州軍の協力者であったとの疑いで、有栖川宮熾仁親王、中山忠能、橋本実麗らとともに処罰対象となり、参朝停止・謹慎処分を受け、その年の12月には関白を辞することとなった。

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(今出川通りに面した境町御門を入ると、広い芝生の区画に鷹司邸跡の碑が立っている。現在の京都御苑内の道は幕末当時の道とは異なる)

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