幕末トラベラーズ

鹿児島の史跡

五代友厚像
(ごだいともあつぞう)

鹿児島市泉町

薩摩藩士・五代友厚は、幕末期には、上海やイギリスに留学して、薩摩藩の殖産興業のために尽くし、明治期には実業家として活躍した。大阪商法会議所(現在の大阪商工会議所)初代会頭となり、今日の大阪の発展に大きく寄与した人物。

五代友厚像

五代友厚は天保6年(1836年)生まれで、通称才助(さいすけ)。薩摩藩の記録奉行だった父に世界地図を見せられて、海外事情に興味を持つようになる。21歳のとき、長崎海軍伝習所でオランダ教官に航海術や砲術を学び、24歳のとき、幕府の上海への使節団に参加。身分が低かったため水夫としてまぎれこみ、上海で西洋文物を見学した。ちなみに、長州の高杉晋作もこの使節団に参加しており、両者は親しく交流したという。

その後、薩英戦争で、五代は薩摩藩船の船長となったが、寺島宗則(てらしまむねのり)と共に英国軍の捕虜となってしまい、横浜へ拉致された。薩摩藩士らからは「五代は命が惜しくて捕虜となった」とそしられ、薩摩隼人にあるまじき賊徒であるとの烙印をおされて一時藩士たちから命を狙われることにもなった。

しかし薩英戦争の敗北によって、開国に方針を転じた藩では、トーマス・グラバーの協力を得て秘密裏に留学生を英国に送ることとなり(もともと留学生派遣は、五代が藩に提案したといわれる)、慶応元年(1865年)、五代友厚、寺島宗則らはその一員となって欧州各地を歴訪、当地で貿易実務を学び、事業家としての資質をみがくとともに、諸産業の視察、武器輸入の取引にたずさわった。五代らの輸入した紡績機械によって「鹿児島紡績所」が建設され、日本の紡績産業の源となった。

帰国後は西郷、大久保らと連携して倒幕運動に奔走、明治新政府ができると参与・外国事務掛となった。五代は外国事務局の判事となって大阪に赴任、以後、大阪の商工業基盤を確立するために尽力することになる。たとえば現在、造幣局の本局は大阪にあるが、これは五代が造幣局の前身である造幣寮を大阪に設立したことに起因している。

薩長閥に太い人脈をもつ五代は、紡績、鉱山、製塩、教育などさまざまな事業に携わり、多くの会社、学校を設立し、大阪株式取引所(現・大阪証券取引所)、大阪商法会議所(現・大阪商工会議所)を立ち上げ、「大阪の父」「大阪の恩人」と言われるようになった。こうした多大な業績は、明治初期の急速な西洋化のなかで、社会が正常な発展を遂げられるべく立ち働いた五代の信念の所産といえる。

PHOTO

(西郷隆盛像から、朝日通を鹿児島港方面に向かう途中の道路右手に五代友厚像がある)

(「東の渋沢、西の五代」とも称された実業家・五代友厚。ただしその活躍の場は鹿児島ではなく大阪だった)

 

(銅像の背面)

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